なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(3)

         使徒言行録による説教(3)使徒言行録1:9-11、

・今日の使徒言行録の個所には、イエスの昇天と再臨のことが記されています。このイエスの昇天と再臨については、使徒信条やニケア信条でも触れられています。昇天については、使徒信条では「・・・・三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」とあります。ニケア信条でも「・・・聖書にあるとおり三日目に復活し、天にのぼられました」とあります。再臨についても、「・・・天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」(使徒信条)、「天にのぼられました。そして父の右に座しておられます。また生きている者と死んだ者をさばくために、栄光のうちに再び来られます。」(ニケア信条)とあります。

・ですから、後の教会にとってイエスの昇天と再臨は、教会の信仰にとって大切な教えとなっていました。

・昇天については、福音書の中ではルカだけが記しているものです。ただフィリピの信徒への手紙2章6節以下の、いわゆるキリスト賛歌の中にも、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をおあたえになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずいて、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(6-11節)。このキリスト賛歌で歌われていますキリストの「高挙」と「昇天」は内容的には近いと思います。ただ「高挙」はイエスが神と等しい者になることで、「昇天」は天に上げられるということだけを表していますので、その違いはあります。

使徒言行録でルカがイエスの昇天と再臨についてこの犠9-11節で記しているのは、前にもお話ししましたが、終末の遅延において「既に」と「未だ」という「中間時」を生きる使徒たち(教会)の働きにフォーカスをあてているからでしょう。イエスは天に昇られて神さまのもとにいらっしゃった。いつか再び私たちのところにやって来るのだから、今はその時を待ちつつ、急ぎつつ、祈りつつ、なすべきことをなしつつ生きて行こうじゃないかという思いがルカにはあったのではないでしょうか。

・さて、私は母親が20歳の時に死にました。前にもお話したと思いますが、死ぬ前の4,5年間筋萎縮症という難病で苦しみましたので、母親が死んだとき、母はもういませんが、どこかに生きていて、私を見守っているのではないかという思いを強く持ちました。ですから、私の中には死んだ母親に恥ずかしくない生き方をしなければならないとい気持ちが強く有りました。それ以来死んだ母親はこの世の中にはいないのですが、今も自分の中では生きているように感じています。

・私にとって、ある意味でイエスも母親と同じような存在です。母親よりはもっと自分の中では大きな存在です。洗礼を受けてイエスと約束を交わし、イエスとイエスが私たちすべてにしてくださったことを何よりも大切に自分は生きていくと決心しました。若いときにしたそのような決心に曲がりなりにも従って、私は、現在もうすぐ71歳になりますが、この年まで歩んでくることができたことを感謝しています。

・イエスが十字架に磔にされて殺され、アリマタヤのヨセフの所有の墓地に埋葬された後、打ちひしがれていましたイエスのお弟子たちは、三日後に復活したイエスの顕れに出会いました。ルカによる福音書使徒言行録の著者と言われますルカによりますと、それから40日の間にいろいろな人が甦ったイエスに出会いました。でも甦りのイエスはいつまでもお弟子さんたちや他の人々にご自身を顕すことをなさいませんでした。

・ルカは「イエスは天に昇っていかれた」(使徒6:9)と記しています。それはイエスが復活してから40日後の出来事でした。その後10日後のペンテコステ(五旬節)にイエスのお弟子たちに聖霊が送られました。肉体において私たちと同じようにこの地上に存在したイエスは、死んで復活して弟子たちに顕れた後、この地上から姿を消して天に昇っていかれたというのです。

・ルカは宇宙については当時の人々と同じように考えていました。地球は平面であり、天は頭上にあります。昼は太陽が輝き、夜は月や満天の星が輝く神秘に満ちた天は、神の住まいでした。イエスが神の栄光に迎えられるときは、イエスも天に昇っていくとルカは考えました。しかしイエスが天に昇って行かれ、弟子たちのもとを去って行って、それですべては終ったのではありません。聖霊を送られたお弟子さんたちは肉体を持ったイエスがいなくなったこの地上の生活で新しい活動を始めました。

・弟子たちは、神の住まいである天に昇ったイエスのことを思って、自分たちも神のいらっしゃる天に行きたい。イエスのいないこの地上の生活には耐えられない。地上には争いや憎しみがあり、いろいろな不幸が起きます。現在でも戦争が有り、震災がおこります。失業やリストラがあり、経済の不安があります。子どもたちの中にもいじめや差別があります。天にいらっしゃる神のところには心地よい温かさがあるに違いない。目の前の現実の生活から天の神のもとに逃げ込んでしまうこともできます。

・神さまだけに心を向けて、隣人である人々に対する関心を持たなくなってしまうこともあります。この世の中は汚れているから、できるだけこの世の中に関わらずに清い生活をするために、この世の中から離れてただ天にいらっしゃる神さまのことを思って静かに生活をすることもできるでしょう。

・しかし、弟子たちはそういう道を選びませんでした。天に昇ったイエスは、天に昇ったときの同じ有様でまたおいでになる。だから、そのイエスが再び自分たちのところにおいでになるときに、イエスに誉められる人になりたい。そためにはこの地上でイエスが生きられたように自分たちも生きていかなければならないと考えたのです。そのためにイエス聖霊を送ってくださったのだと。

・イエスは今は天に昇っていかれたが、イエスは天に住んでいらっしゃる神のところから私たちと同じ人間となってこの地上にこられ、「私たちと同じように生きて、死に、そして復活なさったのだから。神とその栄光に至る道は、人々が暮らすこの地球上にある」のだと考えました。

・イエスが天に昇ってこの地上にはいなくなった後、イエスに代わって神の愛の素晴らしさを伝え、神の美しさを示すのは自分たち以外にいないと、弟子たちは思いました。ですから、イエスのように生きるということが弟子たちの使命となったのです。イエスは、生前お弟子たちにこのようにおっしゃいました。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:30)と。

・実は、イエス聖霊を弟子たちに送ることによって、弟子たちが自分に代わってイエスのように生きる道を用意されたのです。そして弟子たちにイエスは後を託しました。イエスを信じる者はみんなイエスの弟子です。イエスは私たちに後を託していらっしゃるのです。

・この地上にイエスが来られ、その生涯を送ることによってあらわされたよき知らせ、福音は、この時からイエスを信じる人々の心に、言葉に、そして手に委ねられたのです。彼ら・彼女らは、心と言葉と行動でイエスのことを知らせる証人となりました。イエスの証人になった人は、新たな生をもたらす福音をあらゆる場所に、あらゆる方法で休むことなく、広めるように励まされているのです。

・ある人は、イエスを信じるキリスト者になることは、「もうひとりのキリスト(イエス)になることだ。聖霊によって力を与えられたお弟子さんたちは、イエス・キリストの大きな愛を人々に伝えていかなければならない。たとえ、そのためにイエスのようにすべてを与えることになっても」と言っています。このようにイエスを証しするということは、すばらしい働きです。でもそれは難しくもあります。みんなが通る広い道ではなく、狭い道を進んでいかなければならないからです。そのためにはいつも新しくイエスのことを感動する心をもっていなければなりません。信仰は常に新しい水を入れる器でなければなりません。新しい水が注がれませんと、器の水は時とともに腐ってしまいます。信仰も腐ってしまうことがあるのです。絶えず信仰を新しくしていかなければなりません。

・最後に詩のような祈りのような言葉を紹介して終ります。
「主の愛は/身体と心を疲弊させる病より/非情に判断する冷たい眼差しより/わたしたちを陥れる罪より/大きかった/主の生命は/すべてを独占しようとする心より/人々を十字架につける憎しみより/人々に恐れを抱かせる死より/力に満ちていた/主イエスの証人となったわたしたちは/平和で、愛情にみちた地球をつくるために/それぞれ歩きはじめた」(『イエスと出会う』221頁)。

・「平和で愛情にみちた地球をつくるために」、今私たちは、原発や基地によって人間や自然の生命にたいする暴力が振るわれているこの国の中で、イエスの証人として生きているのではないでしょうか。