なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(37)

 今日は「牧師室から(37)」を掲載します。2000年に教会の機関誌に書いたものです。

                牧師室から(37)

 先日特別養護老人ホームにいらっしゃるSさんの娘、Cさんからお手紙をいただきました。その中

に、ある福祉関係の小冊子に掲載された「在宅看護の難しさ(私の場合)」というCさんの文章が

同封されていました。そこには、Sさんの認知症の進行とご自分の病気、体調不良の中で、在宅看

護が困難になり、ホームでの生活になった経緯と、現在の介護保険の問題点が書かれていました。

そして「最後にエピソードの一つ、ご披露致します。面会の時のエレベーターの中での会話です」

とあって、以下のようなお二人の会話が記されていました。

 父「あなたの名前は?」(Cを忘れている)。/C「はい、私の名前はC.Sと申します」。/父

「そうですか。では私はあなたの葬式には出席します」。/C「恐れ入ります。よろしくお願いい

たします」。/父「その代り、あなたも私の葬式にぜひ来てください」。/C「必ず、そのように

致します」。

 Cさんは、このエピソードを紹介した後に、「このお話は、私はとても気に入っております」と

記して、自分の文書を終えています。私は、このCさんの文章を読み終えて、何とも言えない温か

さを与えられました。それは、Cさんの文章から、世間の価値観や評価が全く入る余地のない絶対

的な人間の肯定のようなものが感じられたからだと思います。そんなすべてを包む絶対的な肯定の

眼差しの中に私たちの存在と生活があることを忘れないようにしたいと思います。

                                  2000年8月


 7月半ばにUさんは、8月2日の満88歳の誕生日を前に、それまで続けていた輸血と点滴(延命治

療)をすべて止めることに、家族の方と話し合って決めました。その直後、娘さんから電話を受

け、「この決断でよかったのでしょうか」と、私は聞かれました。「よいかどうかは分かりません

が、ご本人とご家族の精一杯の決断でしょうから許されると思いますよ。これまでよくやって来ら

れたのですから」と、私は申し上げました。

 Uさんは6年前に大腸の末期癌で手術を受けました。そして4年後にも再手術を受けましたが、そ

の時医者は、後一か月程でしょうと、家族の方に言われたそうです。それから1年8か月の病院生活

を続けて、去る9月6日早朝に召されました。本人は自分が癌であるということに気づいていなかっ

たようです。それにしても、自分の体に回復の兆しが感じられない状態での1年8か月の入院生活で

したが、この長期の病院での生活を、Uさんは大変明るく前向きに過ごしました。重いはずの入院

生活が周囲の者に軽く感じられたのはなぜでしょうか。Uさんが天性の明るさをもっておられたこ

と。物事を疑うのではなくよく解釈するお人好しなところがあったこと。ご家族の方が毎日のよう

に病院に行かれ、食物を差し入れたり親子の話し合いが密であったこと。Uさんが自分の歩んで来

た人生を総体として感謝できたこと。その日その日に小さなことに感動を持てたことなどが考えら

れますが、不思議としか言えません。
                                   2000年9月


 最近私たちの教会の礼拝に毎日曜日出席しておられるOさんが、お話したいことがあると、面

談にいらっしゃいました。Oさんは、一年程前に転勤で横浜に住むようになり、この4月からご家族

も横浜で生活するようになりました。熱心なクリスチャン家族で、自分たちの出席する教会を探し

ておられるのです。いくつかお聞きしたいことがあるということで、私を訪ねて来られたのです。

具体的に挙げられた問題は主に2点でした。一つは、礼拝の前奏と後奏での会衆の私語の問題で

す。この方も、会堂の構造上いたしかたないとは思うがと断って、前奏が始まっても会衆が静かに

ならないこと、後奏で会衆が立ち上がったり、話し始めたりすることに疑問を感じられておられる

のです。もう一点は、週報についてです。コラムや献金者の報告が週報の中で大きな位置を占めて

いるのは何故かというのです。多くの教会の週報には、コラムや献金者の報告の代わりに、前週の

説教要旨や主の祈りや使徒信条(信仰告白)が印刷されているのです。Oさんは、礼拝の会衆の態

度や週報には教会の姿勢が表れていると思うので、私たちの教会が宣教についてどう考えているの

かというのです。

 後奏についてはOさんに、前々任者以来、(派遣)として奏楽中に立って会堂を出ていくことは

おかしくないということをお話ししました。その他の疑問はもっともなところもあり、Oさんには

私なりのお答えは一応しましたが、教会としても考えて行かなければならないと思います。

                                  2000年10月