なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(6)

        使徒言行録による説教(6)使徒言行録2:1-11
             
・今日はアドベント第一主日の礼拝です。今日の説教の聖書個所は使徒言行録2章1節から13節です。この使徒言行録の個所はペンテコステの出来事を記しているところで、まずアドベントの礼拝の説教テキストになることはないと思います。けれども、この船越教会の礼拝説教で使徒言行録を始めたばかりですので、クリスマス礼拝以外はアドベントの日曜日も使徒言行録を説教のテキストにさせていただきたいと思います。教会歴からすればあり得ないことですが、お許しください。

使徒言行録2章は五旬節(新共同訳聖書では「五旬祭」)に起こった出来事を記しています。五旬節とは、過越の祭の直後の日曜日(この日イエスは甦られた)から数えて50日目の日曜日のことです。七週の祭りとも呼ばれていました(出エジプト34:22)。元来は小麦の収穫を祝う祝日であったらしく、「刈入れの祭」とも呼ばれていました(出エジプト23:16)。そしてこの祭りはあまり重要な祝日ではなかったようですが、この日がシナイ山における律法授与の祝日と見なされるようになって以来、ユダヤの人々の間では重要な祝日になりました。モーセが神から十戒を与えられたその記念日に、新しい神の恵みがイエスを信じる人々の上に臨んだという含みが、この記事には込められていると思われます。

・この日に「一同が一つとなって集まって」いたと言われています。原文では「一緒に」という言葉と、「同じ所に」という二つの副詞が、たたみかけるように重ねて出てきます。ひと所に一緒に集まっているということが、強調されているのです。

・イエスを中心にして、イエスにおいて起こった救いと解放の出来事にあずかった者たちが、祈りを共にし、互いに愛し合うために集まることは、その信仰から生まれる必然的な要請です。聖霊降臨という神の恵みの出来事に浴する準備として、使徒言行録の著者ルカは、このことを大変重要視しているのです。

・「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2節)と言われています。これは神の霊が身体(からだ)ではっきりと感じ取れる激しい現象を伴って、イエスを信じる人々の上に臨んだというのでしょう。

・また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)と記されています。ここには、シナイ山において神の言葉が七十の舌に分かれ、世界の七十の国民はそれぞれ自分の言葉でこの十戒を聞いた、というユダヤ教の伝承がその背後にひそんでいるのかも知れません。しかしもちろん、ルカはこのユダヤ教の伝承をキリスト教的に改作しようと意図しているのではありません。現実に天から到来した聖霊の臨在が、いかなる新しい事態を生み出したかということを、以下で語ろうとしているのであります。

・ところで聖霊に満たされた人々は「ほかの国の言葉で話しだした」とされていますが、これは直訳しますと「異なる言葉で話しだした」です。「異なる言葉で」は新共同訳聖書のように「ほかの国々の言葉で」とも解することができますが、「異言で話しだした」とも読むことができます。

・5節から11節の記事は、使徒たちは多くの外国語で語り始めたとしていますが、それに続く13節と15節(「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲り)は、思いもかけぬ異言に接した人々の、驚きと嘲笑を語る趣旨と考えられます。

・「異言」とは、第一コリ13章、14章によれば、人間の語る普通の言葉ではなく、「御使たちの言葉」(第一コリ13:1)、「神に向かって語る言葉」(第一コリ14:2)と説明されていることからも推察されるように、霊的恍惚状態に陥った人の口にする言葉です。普通の人が聞いてもその内容を理解することはできません。しかし霊的能力を与えられている人は、これを解くことができたようです(第一コリ14:13,27)。

使徒言行録の2章の記事は、ここでイエスを信じる者たちが語り始めたのは外国語だったのか、それとも本来は異言であったが、それを外国語のように聞こえたというのか、はっきりしません。ただこの記事でルカが示そうとしている事態の意味は、はっきりと理解することが出来ます。

・復活者イエスは弟子たちに向かって、「聖霊があなたがたに降るとき、あなたがたは力を受けるであろう」と言われましたが(1:8)、その力とは、病を癒し、悪霊を追い出すといったような、奇跡をなしとげる力であるよりも、むしろ言葉における能力に焦点をあてて、記述がすすめられています。イエスを失ったあと、次の一歩をどう踏み出すべきか、いわば途方にくれていた弟子たちの群れに、上から霊的能力が賦与されたとき、彼ら・彼女らは新しい言葉を与えられて、言語と民族の境を越え、全地の民に向かって喜びの音ずれを宣べ伝えるために、派遣されてゆくのです。これが「イエスの証人となる」(1:8)ということの具体的内容であります。そして2章の記事は、あのイエスの約束が実現への一歩を踏み出した、ということを語るものであることは、疑問の余地がありません。

・9節から11節に挙げられている地名は、現実にここに居合わせた人々の出身地を、忠実に記録したものではありません。ルカがこれによって何を語ろうとしているかを読み取る必要があります。

・この箇所は、「ユダヤ」「ユダヤ人とユダヤ教への改宗者」「クレタ、アラビアから来た者」を除きますと、あとに12の地名が残ります。12とは、一つの完全数ですから、全地に向かって、今や福音の伝達が開始されたという事態を、ルカはこれによって示そうとしているのでしょう。しかもローマが12番目に挙がっており、この使徒言行録自体も、パウロのローマ伝道で終わっています。そうだとすれば、「地の果てまでイエスの証人となる」という約束の言葉(1:8)が、すでにここで実現への一歩を踏み出したというのが、この記事の意味でしょう。

・ここに列挙されている地に住むディアスポラユダヤ人たちは、さげすまれ、虐げられ、歴史の中に消えていこうとしている人々だということが出来ます。聖霊降臨によって、使徒たちが最初に語りかけた相手がこういう人々であったということの中に、福音の本質が如実に現れていることを、ルカは示そうとしているのでしょう。

・1章6節で、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と弟子たちが尋ねたとき、彼らは恐らく、エルサレムを中心とするイスラエルの復興を、待ち望んでいたと思われます。ところがここでは、むしろ死の陰に座する民のもとへ行け、という指示を受けたのです。そして事実、10-11節に列挙されている地方に、福音はいかに浸透したかとう次第を、ルカはみずから語るべく予定しているのであって、ポントはパウロの協力者アクラの出身地であり、アジア、フリギア、パンフリアは、いずれもパウロの活動した地域です。またエジプトからは、伝道者アポロが起こされたし、クレタ島には、パウロの弟子テトスが派遣されました。このような福音前進の跡が、ここですでに先取りされ、予告されているという趣旨も、併せて読み取ることができます。

・しかしながら、使徒たちの語りかけは、その相手から、真心こもる愛の呼びかけとして、正しく受けとめたわけではありませんでした。むしろすべての人々が「驚き、とまどい、」「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言ったというのです。そればかりではなく、13節には「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいたと言うのです。霊に満たされている姿を、酒による泥酔と見誤ったのです。これに対する弁明として、外部の人々に対するペトロの最初の演説が、14節以下に続くのです。このルカが記す聖霊降臨によって誕生した最初の教会の物語から、イエスにおいて起こった「神の偉大な業」が語られると、人々はみな驚き、とまどい、中には嘲る者もいたということに注目したいと思います。

・たまたまヘンリー・ナウエンの『今日のパン、明日の糧』を読んでいて、内容的にこのことに通じるものがありますので、少し長くなりますが、紹介させていただきます。

   「迫害されるイエスさ」         5月31日
 神の心に近い愛する子、イエスは迫害されます。貧しく、柔和で、悲しむイエス、義のために飢え渇くイエス、憐れみ深く、心の清い、平和を実現する人イエス、この方はこの世では歓迎されません。神によって祝福された方は既存の社会秩序に対する脅威であり、自らをこの世の支配者であると考える人々にとっては頭痛の種です。誰も告発しないのに告発者とされ、誰も非難しないのに人々は気が咎め、恥ずかしく思う。誰も裁いていないのにイエスを見た人は裁かれたように感じる。人々の目には、イエスは容認されてはならず、容認することの出来ないものと映ります。なぜならイエスを生かしておくことは、罪を認めるようなものだからです。
 イエスのようになろうとするなら、受け入れられ、賞讃されることがいつも期待出来るわけではありません。拒絶されることに備えなければなりません。

・このナウエンの言葉は、復活の主イエスの招きと、聖霊が与えられることによって集められた最初期の教会の人々にも当てはまったのではないでしょうか。しかし、それでもイエスの証人として生きることを、最初期の教会に集まった人々は喜んでいるのです。ルカの描く聖霊降臨節の出来事は、ルカの神学に色づけられていて、輝かしく思われますが、実際に最初に誕生した教会は、イエスベツレヘムでの馬小屋での誕生と同じように、世の片隅に生前のイエスの弟子たちを中心に小集団が家の教会として生まれたのでしょう。しかし、そこに集まった人々には、全世界の人々の心をとらえる復活の主イエスによって神の命の輝きが見えていたのではないでしょうか。だから、彼ら・彼女らは「神の偉大な業を語った」のです。

・この船越教会に集う私たちも、小さくはあってもこの最初の教会に集められた人々と共に、この時代と社会の中で、イエスの生涯と死と復活において示されている「神の偉大な業」を、その言葉と生きざまによって語り伝えることができますように。我らにも聖霊を注ぎ給え。