なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(40)

         使徒言行録による説教(40)使徒言行録10:44-48、

・先週の日曜日は夏期休暇で説教がありませんでしたので、のんびりさせていただきました。たった1回の日曜日ですが、説教をしないということが、こんなにも楽なことかとしみじみと感じさせられました。昨年は、夏期休暇の日曜日は藤沢大庭教会の礼拝説教を頼まれていましたので、日曜日説教をしない日はありませんでした。一昨年は、本年と同じように夏期休暇の日曜日の礼拝は秦野西教会に出席しましたので、説教のない日曜日は2年ぶりでした。運動選手ではありませんが、オフの後に練習を再開する時は、ペースをつかむまでしばらく時間がかかるようですが、私も今回はそんな感じです。

・さて、前回9月1日の礼拝説教では、使徒言行録10章34節から43節までの個所がテキストでした。そこには、カイサリアに住んでいたローマの百人隊長コルネリウスの家に招かれた、ペトロがした説教の内容が記されていました。この個所の「ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる」という新共同訳聖書の表題が物語っている通りです。ペトロがコルネリウスの家で語った説教の内容は、イエスの生涯のわざと十字架と復活の使信が中心で、それにイエスが神によって「生きている者と死んだ者との審判者」として定められた者であること。そして、「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれもその名によって罪の赦しが受けられることを証ししている」ということでした。これは、最初期の教会のケリュグマ(福音宣教)の内容が総括的に語られているものではないかと思われます。

・今日の使徒言行録の個所は、ペトロが説教しているときに、「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」(44節)というのです。この一同とは、コルネリウスがペテロを招いた時に、彼の家に呼び集めて一緒にペテロの説教を聞いていたコルネリウスとその親族及び彼の親しい友人たちでした((10:24)。この人たちはみんな非ユダヤ人(異邦人)でした。そこで、「ペトロと一緒に来た人(ユダヤ人)は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた」(45節)というのです。

・ここで聖霊の「賜物」と訳されている原語はドーレアという言葉です。聖霊の「賜物」にはカリスマという言葉が使われる場合もあります。この場合は、「聖霊によって与えられるさまざまな能力」という意味での聖霊の賜物です。ドーレアの場合は、「聖霊という賜物」「賜物として聖霊」という意味です。同じような意味の表現は、使徒言行録2章38節のペトロの説教の中にもあります。「悔い改めさない。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。但し、この使徒言行録2章38節は、「洗礼を受けてから賜物としての聖霊を受ける」と言われています。今日の個所では、「御言葉を聞いていると賜物としての聖霊が降った」とあり、洗礼はその後に来ています。その違いはありますが、ただここでも「賜物としての聖霊が異邦人の上に注がれる」と理解するのが適切です。

コルネリウスやそこに集まった人たちが聖霊を注がれたということがわかったのは、46節にあるように、彼ら「異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである」というのです。異言を話すというのは、聖霊の力が心の中に満ちることによって、理性では理解できないような霊的な讃美や祈りの言葉が口から出てくることです。

・この異言については、パウロがコリントの信徒への手紙14章でも記しています。パウロはこのように語っています。「「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれでも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」(-5節)。つまり、異言を語る人は、その人自身は信仰に満たされているかも知れないが、それを聞いた他の人にとっては、理解できない言葉なので、それほど信仰上の益にはならないと言うのです。

・ただこの個所では、聖霊を受けた人は必ず異言を語るはずだとか、あるいは異言を語らない人は聖霊を受けていないというようなことを言っているのではありません。コルネリウスたちの場合には、彼らが「異言を話し、また神を賛美している」ことによって聖霊を受けたことがわかったと言っているにすぎないのです。聖霊を受けることは、『聖霊による喜び』(汽謄1:6)というようなごく一般的な形で現われることもありますし、コリントの信徒への手紙一の12章でパウロが記しているように、「知恵の言葉」「知識の言葉」「信仰」「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言する力」「霊を見分ける力」など、異言以外にもさまざまな形で現われるものなのです。ただし、コルネリウスたちの場合には、異言を語るという形で彼らが聖霊を受けたことが明らかにされたということです。

・ペトロは「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(47節)と一同に尋ねました。すでに神の言葉と神の霊を受けた人々は、どこの国のひとであっても、またユダヤ人のように割礼を受けていなくても、洗礼を受けて神の国の民となることができるというのです。おそらく、その場にいた人たちはだれも反対する人はなかったのでしょう。ペトロはコルネリウスたちに「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるように」(48節)と命じました。

使徒言行録の中には、洗礼を受けて、聖霊が降るという定式と、御言葉(神の言葉)を聞き、聖霊の注ぎを受けた者が、洗礼を受けるという定式の二つのパターンがあります。荒井献さんは、伝承としては聖霊を受けて洗礼に至るという方が古いもので、洗礼を受けてから聖霊が与えられる方が新しいと言っています。「《異邦人の受洗物語》では『聖霊降下』→『洗礼』の順序になっているが、行伝では通常逆に『洗礼』→『聖霊降下』の順序になっている(2:38,8:12-13,17,9:17-18,19:5-6)。後者が制度化された入会儀礼としての『洗礼式』を前提する聖霊観であるのに対して、前者はヨハネの『水による洗礼』に対置された『聖霊による洗礼』(使徒1:5,2:1-4,11:16、ルカ3:16をも参照)が、エルサレムユダヤ人信徒たちに生起したのと同じレベルで、異邦人信徒たちに生起したことを物語るものである(イェルヴェル)。したがって、伝承史的には後者が前者よりも原初的である可能性はあろう。しかしこれを介してルカは、『神を畏れる』異邦人たちの受洗が神による聖霊降下の帰結として、一方において異邦人たちの最初の受洗を神によって導かれる『救済史』の中に位置づけ、他方において事後的受洗により教会制度の中に統合した、とみることができよう」と述べています。

・このことは、洗礼は、元々聖霊降下の前提というよりは、むしろ御言葉を聞き、聖霊を受けた者が、事後的に洗礼を受けて教会のメンバーに加えられたことを意味すると思われます。

・「普通教会では、キリストを信じる信仰をもってから洗礼を受けるというように考えられています。もちろんそのことは間違いではありません。確かに、教会の基本的な信仰の告白に同意し、それを共に告白しなければ、洗礼を受けてクリスチャンとなるということはできません。しかし、信仰のある人が洗礼を受けるということを強調しすぎると、信仰の細かなところまで理論的に理解している人だけが洗礼を受けることができる、という考えに陥ってしまいます。これは、洗礼についての誤解を招く考え方です。

・そもそも、完全な信仰をもっていなければ洗礼を受けられないということであるならば、つまり人間の側の信仰が洗礼の基礎となるならば、いったいだれが洗礼を受けることができるでしょうか。洗礼の基礎はむしろ、神がその人に神の言葉と神の霊、すなわち御言葉と聖霊を与えてくださっているという神の側の働きに置くべきなのであります。そして、その人がすでに神の言葉と神の霊を受けており、これからも受け続けていこうとしていることが確認されるならば、その人が御言葉と聖霊によって清められるしるしとして、洗礼が授けられるべきなのです」(三好明)。

・最後に、このカイサリアのコルネリウスの家で、非ユダヤ人である異邦人のコリネリウスらとペトロとヤッファから彼と一緒に来たユダヤ人信徒の仲間とが、一緒にイエスの福音を語る御言葉に耳を傾け、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも聖霊が与えられたことを確認し、しばらく共に交わりの時をもったということに注目したいと思います。

・これは、後の教会の世界宣教というような覇権主義的な伝道ということではなく、ケリュグマ(福音宣教)の広がりの中で、ユダヤ人と異邦人の壁が越えられて、人と人とが、つまりペトロとコルネリウスがイエスの福音によって結ばれていくという出来事です。教会の教勢拡大とはことなるイエスの福音によって自発的に起こった異なる立場の人間同士の結びつきです。

・もしペトロとコルネリウスの出会いが、使徒言行録に記されているように歴史的な出来
事あるとすれば、言語の壁を含めて、ペトロもコルネリウスも並大抵なことではなかったかと思うのです。そういう意味では、その人間を隔てるさまさまな壁が打ち破られて、人間が対等な繋がりを持ちうる原点というか、根拠が、グローバリズムの中で帝国主義的な、暴力的な統合による一体性とはまったく異質な、イエス神の国の福音によって共に生きる道が、私たちに与えられているということは、何と大きな恵みでしょうか。

・また、ローマの兵士であったコルネリウスがイエスの福音を聞いて、聖霊が与えられ、洗礼を受けたということですが、当時のローマの兵士の生き方という点で、彼が信じたイエスの福音がコルネリウスにどのような影響を与えたのかということも気になるところです。ユダヤ人の側にも非ユダヤ人の側にもイエスに従うキリスト者が与えられて、民族の壁による人間の分断が超えられて行くことは平和に繋がることですが、同時にそれぞれが置かれた状況の中で、その状況が持つ暴力性に抗って、イエスの生きざまに倣って、自分の内側から平和を造り出す者となっていくことが求められていると思われます。

・ペトロやコルネリウスが、その点ではどうだったのかを想像しながら、自らのあり様をイエスと他者の前に問う者でありたと願います。

       (注記:最後の部分は、実際の9月15日の説教に付加したものです。)