なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(37)

       使徒言行録による説教(37)使徒言行録10:1-23a
               
・ 今日の使徒言行録の個所は、ローマの兵士である百人隊長であるコルネリウスという人物の回心物語の最初の部分です。ここでは、この非ユダヤ人(異邦人)であるコルネリウスユダヤ人であるペトロとの出会いが、どのように起こったかが記されています。その叙述はまことに神話的な言い回しに終始しています。二人とも、別々に幻を見て、それを契機にして出会うことになります。

・まずコルネリウスですが、彼はカイザリアにいて、非ユダヤ人でありましたが、ユダヤ教に惹かれていた「神を畏れる者」の一人でした。「神を畏れる者」とは、割礼を受けてユダヤ教に改宗してはいませんが、非ユダヤ人としてシナゴーグの礼拝に参加し、同じく聖書の神を信じている人のことを意味します。コルネリウスは、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず祈っていた」(2節)と言われています。「民に多くの施しをし」とあります「民」が、誰を指すのかは明確ではありません。この民と訳されている言葉には定冠詞がついていますので、ユダヤ人の環境の中では「イスラエルの民」」を意味します。しかし、カイザリアの町は非ユダヤ人(異邦人)が多かったので、「ここで、『イスラエルの民』に意味を特定するのも奇妙である。・・・ルカは何となく『世の中の人々』の意味でこの語を用いているのだろうか。それともこの百卒長(百人隊長)はユダヤ教に対して親近感を持っていたから、現地のユダヤ人に対して多くの寄付をなした(会堂の維持に貢献するとか)といったことをこのように表現しているのだろうか」(田川健三)。

・そのようなコルネリウスが午後の3時ごろに幻を見たというのです。「彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。』」そう言って天使は去っていきます。「コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士を呼び、すべてのことを話してヤッファに送」りました。

・この三人が翌日ヤッファの町に近づいたころ、ペトロは昼の12時頃、祈るために屋上に上がりました。その時、ペトロは空腹をお覚え、何か食べたいと思いました。人々が食事の準備をしているうちに、「ペトロは我を忘れたように(エクスタシー、夢心地)なって、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た」というのです。その中に入っている各種の生き物を「屠(ほふ)って食べなさい」と命ずる声に対して、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。すると、また「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が聞えました。

・この発言がこの章の中心的な主題です。そしてこの個所には、『我を忘れたようになり』とか、『天が開き』など、神からの超越的介入を示す言葉が出て来るばかりでなく、ちょうど正午の空腹を覚えるころ、3人の旅人が近づいてきたという時の符号など、すべてが神の摂理によることを強調しており、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という命題に集約されてゆくのです。『浄・不浄』の別を守ることに、異常な関心を払っていたユダヤ人にとって、この区別を一切撤廃せよということは(イエスご自身も同じ思想を表明しておられたとは言え)、やはり衝撃的命令であったに違いありません。そして、ペトロが、この言葉について思案しているところへ、あの3人の使者が門口に到着したのでありました(10:17)。

・ここからまた新しい段階が始まりますが、19節にも再びペトロが「幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。立って下って行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ』」というのです。三人の使者たちも、「聖なる天使からお告げを受けて」やってきたと言います。

・ルカは、ペトロの側にも、コルネリウスと三人の使者の側にも、いずれの側にも等しく天から与えられた指示が臨んだことを強調しているのです。また、コルネリウスが非ユダヤ人(異邦人)でありながら、「神を畏れる者」の一人であったということも不思議な導きが臨んでいたことを示しています。

・「浄・不浄」の教えによって、非ユダヤ人(異邦人)を汚れた者として見下していたユダヤ人であるペトロにとって、非ユダヤ人(異邦人)であるコルネリウスからの3人の使者と共にコルネリウスのところに行くことは、考えられなかったことです。しかし、律法から自由なイエスの福音は、そもそもユダヤ人であるとか、非ユダヤ人(異邦人)であるとかということによって、人と人とを隔てられるその障害そのものを取り払う音ずれなのです。天来の導きによってペトロとコルネリウスが出会うことができたという使徒言行録の物語の中には、民族の壁による人間の分断を許さないイエスの福音のもつインパクトが示されているものと思われます。

・けれども、何故非ユダヤ人(異邦人)の最初の回心者として、ローマの兵士であるコルネリウスが選ばれたのでしょうか。ローマの兵士でない非ユダヤ人(異邦人)の回心者もいたのではないでしょうか。ルカがコルネリウスを選んだのは、非ユダヤ人を代表する人物としてふさわしいと考えたからではないでしょうか。カイザリアにおけるコリネリウスの存在と彼の回心は、非ユダヤ人(異邦人)の回心として、伝承となって言い伝えられていたのでしょう。ルカはその伝承をここで取り入れて描いているのだと思います。例えば、非ユダヤ人(異邦人)であるローマ帝国の無名の奴隷の回心を記事にしてもよかったと思います。ただ、そのような無名の人の回心は物語として伝承されてはいなかったでしょう。ルカは、非ユダヤ人(異邦人)世界であるローマ社会の体制が持つ矛盾について、ほとんど自覚していなかったのではないかと思われます。コルネリウスは解放奴隷の一人としてローマの市民権をもっていたと思われます。そして彼はローマの兵士でした。ローマの権力の側に立って、民衆を支配していた側の人です。ルカは無批判にそういうキリスト者が与えられ、ローマ社会の中にキリスト教が広がっていくことを、地の果てまでイエスの福音が宣べ伝えられることだと考えていたのではないでしょうか。

・そういう問題を感じますが、イエスの福音は、人と人との間に両者を隔てている壁を壊し、人と人とを繋ぐ命の力であることは確かです。国家や民族という壁を超えて、人と人とを、一つに結びます。

・さて、私が紅葉坂教会の牧師であった最後の頃に、日本に留学していて、同じ日本に留学していた中国人の方と結婚していた韓国人の女性の方が教会の近くに住んでいて、紅葉坂教会の礼拝に出席していました。その方は、韓国にいたときにも、お姉さんが大変熱心なクリスチャンでしたので、お姉さんに誘われて教会の礼拝には行っていたようですが、お姉さんの信仰の在り方にも多少距離を感じていて、洗礼は受けていませんでした。紅葉坂教会の礼拝に来るようになって、2009年10月に洗礼を受けました。洗礼を受ける前から、彼女と、入門講座のような学びを一緒にしましたが、洗礼を受けてからも、毎週一回『現代を生きるキリスト教~もうひとつの道から~』という本を一緒に読みながら、いろいろと学び合いました。項目ごとに私が本を読んで、多少解説を加え、それに対して彼女からの質問に答えるという形で、大分長い間続けました。

・その彼女との関係は、教会を通しての関係です。もっと言えば、聖書を通して、イエスを通しての関係です。私たちは、イエスを信じる信仰による交わりの一員として、日本人である私も韓国人である彼女も、神の国を信じ平和を造り出す者としてこの世に生きるキリスト者です。その彼女と私との関係においては、それぞれが所属している国や民族の違いが問題になるということは殆どありませんでした。けれども、日本人である私と韓国人である彼女との間には、国や民族、文化や歴史の違いが厳然として存在します。その違いが、時には国家主義民族主義的な考えと行動によって、抑圧と差別を作りだす暴力的な力になることがあります。かつての日本の朝鮮統一と侵略戦争はまさに日本の国家による犯罪的な行動でありました。私は、その時代に生きていたわけではありませんが、日本の国が犯した過ちの責任は負わなければなりません。そして平和を造り出すキリスト者として、再び同じ過ちを繰り返さないために努力しなければなりません。

・今日の船越通信にも紹介しておきました、8月11日の教区の平和集会の宣言には、「放射能汚染の危機、そして改憲の危険にさらされている今、キリスト者として所属する国家や民族の枠を超えたすべての人と存在の平和を求めて、以下のように宣言します」として、次のように努力目標が掲げられています。
「・過去の過ちを反省する中で形づくられ、「平和主義」と「戦争の放棄」を謳った日本国憲法を堅持することを求めます。・日本が犯してしまった20世紀初頭のアジア諸国への侵略戦争の過ちを覚え、その過ちと反省を受け継ぐこと、また共有する努力を続けます。・過去の過ちをないがしろにしようとする全ての動きに反対し、同じアジアを形成する一員として和解の道のりを探ります。・沖縄における米軍基地の強化など、あらゆる軍事力の強化、軍事力による国際紛争の解決を進める動き、姿勢に反対し、行動します。・一刻も早い原子力発電所事故の収束と、すべての原子力発電所廃炉を求めます。また、すべての放射能汚染の被害者の権利が最大限に守られることを求め、行動します。・キリスト者として、生活のあらゆる場において平和を求め、より大きな平和を創り出すために祈り、また行動します」。

・国家や民族の壁を超えて人と人とが、イエスにおいて一つに結び付けられるということは、そのようなことではないでしょうか。それは、ただキリスト教という宗教が国家や民族の枠組みを超えて全世界に広がるということではないと思うのであります。