なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(246)復刻版

昨日午後2時から今日のお昼まで、船越教会を会場にして「フェミニスト神学の会」があり、20

名ほどの参加者がありました。ハガル、タマル、マグダラのマリアの3人の女性に焦点を当てて、

一緒に考え、話し合いました。昨夜は夜中の2時ごろまで話し合い、ハガルが「あなたこそエル・

ロイ(わたしを顧みられる神)」と神の名を呼んだところをヒントにして、「神の名を呼ぶ」とい

うスタンツをまとめ、実際に今日の9時からの会で実演しました。私は「伝統的な(神の)呼称に

も良い意味を見出している古株の信徒」役でスタンツに参加しました。スタンツの最後に、6人が

それぞれ神の名を呼ぶ場面がありました。私は伝統的な「在天の、慈愛に富み給う、主イエス・キ

リストの父なる神よ」と、神の名を呼びました。すると、それぞれの呼びかけに対して、神の役割

をした方が、コメントするのですが、私の場合には、一言「古い!」と言われてしまいました。

さて、神に「おもしろい、気に入った!」といわせた「神への呼びかけ」の言葉は何だったでしょ

うか? みなさん、考えてみてください。来年の『教会と女性』にはこのスタンツの記録も載ると

思いますので、正解は、一年間待って『教会と女性』でご確認ください。

 さて、今日も「黙想と祈りの夕べ通信(246)」復刻版を掲載します。通信に今まで載せてい

ましたルターによる『日々のみことば』からの引用は、今日から割愛します。悪しからずご了下さ

いた

          「黙想と祈りの夕べ通信(246)」復刻版

 ホームに入所しているお年寄りの方で、家族の世話を受けられず、段々と自分の判断力が失われ

てきて、自分の財産の管理もできなくなると、どうしても後見人をたてなければならなくなりま

す。最近初めて知ったことですが、家族・親族がいない場合、後見人の申請は行政の区長がする場

合があるそうです。そのようにして後見人が立ち、本人が死亡した場合、本人の死亡公告が裁判所

に出て、その間親族からの遺留分の遺産相続の申し出があり、裁判所が認めれば、その方に遺産が

いくそうですが、そうでなければすべて国庫に入るということです。いわゆるホームレスの方が道

端で亡くなった場合と同じ扱いになるそうです。阿部謹也が「世間」ということで本を書いていま

すが、日本人の中には世間を気にする集団的な時間が故人を支配している場合が多いということを

書いています。しかし、欧米の場合は時間が個人個人によてそれざおれの時間があり、日本人のよ

うな世間という集団的な時間はないというのです。上記のようなお年寄りは、個人主義が徹底して

いる欧米の場合、もしかしたら、健康なうちに遺言を残して、自分が死んだ場合の財産処分も自分

で考えておくということになるのかも知れません。段々と現代の日本の社会も、今までのように誰

かが何とかしてくれるという依存的な姿勢(甘え)では生きられなくなって来ているのかも知れま

せん。その過渡期の混乱によるいろいろな問題が社会現象として起こっているのでしょう。しか

し、長い目で見ると、個人が責任を持って自分の人生を生きるという積極的な意味での個人主義

私たちの中に根付くことは私たちにとっても必要なことではないでしょうか。そういう積極的な個

人主義が育つことによって、本当の意味での優しさが生まれたらと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。先週日本基督教団の部落差別問題

全国会議の集会があり、はじめて一日だけ出席した。部落差別の問題は大変厳しい。見えないとこ

ろで苦しんでいる人や傷ついている人がいる。その集会の中での発言にも、教会が伝道集会のビラ

を地域に配るときに、ある地域にはビラを入れないということを聞いて驚いた。ただ自分として

は、この集会の中で何回が解放の闘いを奮い立たせるためにであろうが、シュプレヒコールがあっ

たが、それには違和感をもった。イエスが自分たちの先頭に立っているというメッセージや祈りが

あったが、自分としては本当にイエスさまがこの闘いの先頭に立っているのだろうかと疑問を感じ

てしまった。イエスさまを担ぎ出しているように思えて仕方なかった。以前名古屋の集会で部落差

別の話を聞いたことがある。その時の講演者は切々と差別の現実の厳しさ、その痛みの深さを語ら

れた。どうしろと促すわけではなかったが、非常に訴えるものがあった。そういう違和感を持つ自

分の感性とは何なのかと考えながら、昨夜テレビで一人の教師が、自分は日ノ丸・君が代を学校の

中で反対しないで、むしろ率先して参加し、生徒にも促してきた。しかし今年3月の卒業式は、起

立も歌いもしなかった。それは強制のされ方が今までとは違ったものであったからである。そして

職場を奪われていた。今日日ノ丸・君が代を強制されて苦しまなければならない人たちがいること

を思うと、みんな一つの方向に向かなければならないことに対する恐れを感じる。私は女性として

性差別の痛みを感じているが、性差別の問題を同じようにみんな一緒にしようとは思わない。みん

なでエイエイオーとやることによって抑圧されるものがあるように思う。個人の自由、個人の目覚

めを大切にしていきたい。自分の体で感じたことを考えていきたいと思う。そういう意味では、今

回の集会への出席もよいチャンスだった。