なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(245)」復刻版

 今日から明日にかけて、船越教会で、フェミニスト神学の会の集会があります。約20名ほどが参

加します。宿泊は10名ほどです。いつもは木曜日午後に、鶴巻から船越教会に私は来ますが、今週

は昨日から来て、いろいろと準備をしました。

 さて、今日も「黙想と祈りの夕べ通信(245)」復刻版を掲載します。しばらくは、この通信

復刻版と説教と船越通信が私のブログのメインになります。


      黙想と祈りの夕べ通信(245[-36]2004・6.6発行)復刻版
 
 5月31日の月曜日の午前9時過ぎ頃に、未知の方から電話をもらいました。以前貴教会の牧師

さんに葬儀してもらった家族の者で、昨日母が亡くなり、生前母ができればキリスト教式で葬儀を

してもらいたいと願っていたので、現在の牧師である私に母の葬儀をしてもらえないかということ

でした。藤沢市大鋸というところに住んでいて、その近くの火葬場まで来てもらえないかというこ

とでした。私はお引き受けして、6月2日、3日と家で納棺式、葬儀場で前夜式、葬儀式と行ってき

ました。その亡くなられた方はSさんとおっしゃいますが、彼女の父親は同志社の出身で、留岡幸

助の北海道の家庭学園と関わりがあった方だそうです。彼女の47歳の時に夫を亡くし、約10年

位夫の残した事業を継ぎ、お仕事をやめて50代後半から絵を習い、油絵、日本画、水彩画、墨絵と

いろいろな題材の絵を描かれたようです。召されたのは85歳です。彼女が描いた絵が葬儀場のロ

ビーに飾られていました。それも故人の遺志とのことでした。その絵の中に、見覚えのあるチャペ

ルがありました。北海道の家庭学園のチャペルだそうですが、以前当教会にK牧師がいらしたと

き、その牧師館に掛けてあったチャペルの絵と大変よく似ていたからです。この二つの絵が同じチ

ャペルを描いたのかは分かりません。

 私は前夜式の最初に以下のようなことを申し上げました。結婚式の場合はこれら二人が人生を歩

んでいくので、本人たちの意思を問い、準備の時をもって結婚式を挙げるようにしているが、今回

のような葬儀の場合には、本人が亡くなってから連絡を受けるので、本人の意思を私が確かめるこ

とはできません。ただ聖書の神は洗礼を受けて教会に連なっている者の人生もそうでない者の人生

も同じ重さで受け止めていてくださるように、私は信じている。従って、本人が希望し、ご遺族の

方々がそのように願うならば、私としては教会の関係者であれば、そういう方の葬儀式を引き受け

ることにしているので、Sさんの葬儀もお引き受けした次第です。

 けれども、問題がないわけではありません。彼女の葬儀の間にも、親戚の60歳位の男性の方

で、若い時に自分は山梨の教会で洗礼を受けたが、ずっとスペイン語を話す地域で海外生活をして

きたため、教会から離れてしまっている者である。前者式、葬儀式とも素晴らしかった。感謝であ

る。洗礼を受けていない者の葬儀もなさるんですね、と言われました。私は誤解のないようにと、

次のようにお話しました。キリスト教の教会のすべてがそうしているわけではないと思います。中

には洗礼を受けている者に限っている教会もあると思う。洗礼を受けていなければ、キリスト教

葬儀を挙げても意味がない。むしろ教会が勝手にそのようなことをするのは、神への冒涜だという

考え方もあると思います。私はそのように答えました。実際自分が葬儀を司式しているときにも、

心の中に果たしてこれでよいのかどうか、自問自答していることもあります。キリスト教の安売り

に自分は加担しているのではないかと、迷うこともあります。それでも、過去に教会と何等かの形

で関わった人や現在関わっている人やその遺族の方から頼まれたら、私は引き受けるでしょう。そ

れはどうしても、信じる者の死も信じない者の死も神にあってはどちらもかけがえのない者の死で

はないか、と考えるからである。神を信じて生涯を送ることができた者の幸いは、例え生前洗礼を

受けず、また主体的に信仰告白しないままその生涯を終えた人の葬儀を自分と同じように行われた

からと言って、色あせるものではないでしょう。




     「まことの信仰のある所」(『ルターの日々のみことば』より)

 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。      
                                   ヘブ11:1

 その目を閉じて、神のみ手のうちにいっさいを、すなおに喜んでゆだねるならば、これは最高、

最善の信仰です。それは神がなぜかくかくの働きをなさるか知ろうと望みません。理性と、感覚

と、体験には、恐りと不正以外のなにも見えなくても、信仰は、神が最高のいつくしみであり、正

義であることをなおも信じてよりすがっています。このようなわけで、信仰は、見ていない事実を

確認し、見える姿と正反対の事実を確認すると言われるのです。それゆえ、この信仰は神にたいす

る最高のほまれであり、愛であります。また全く正反対の事物の中に、いつくしみと正義の主を見

いだし、たたえることができるほどの最高度のほまれであり、愛であります。ここでは生まれつき

の目は完全にえぐり出されなければなりません。ただ信仰があるばかりです。そうでなければ、霊

ははげしく恐怖のうちに悩むのみです。

                       ハンス・V・リーヘンベルクへの手紙