なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(244)復刻版

 今日も、「黙想と祈りの夕べ通信(244)」復刻版を掲載します。下記には9年前に、2002年

秋に開催された第33回合同後18回教団総会で、沖縄教区議長の山里勝一牧師が「さようなら」と

言って総会会場を出て行った2年後の2004年5月に開かれた沖縄教区総会を傍聴しての私の感想が記

されています。沖縄教区が「しばらく教団との間に距離を置く」決断してから、既に10年を越えて

います。現在まで教団(執行部)は、沖縄教区にそう言わしめてしまった自らの責任を問うことな

く、むしろ沖縄教区の諸教会・伝道所を分断させて、自らの統制の下に置こうとしているかのよう

です。

 最近沖縄教区は、沖縄教区ブックレット『沖縄に立つ合同教会をめざして』~答申:沖縄にある

望ましい将来教会の在り方/2008年(沖縄にある将来教会の在り方を検討する特設委員会)、

資料:2002年以降の合同のとらえなおし関連文書~を発行しました。もし興味関心のある方

は沖縄教区事務所に問い合わせてみてください。教団宣教研究所から出されている「改訂宣教基

礎理論第一次草案」と比べて読んでみれば、いかに沖縄教区ブックレットの内容の方が、今日の教

会の宣教について考える時に参考になるかが一目瞭然です。
 
 現在の教団の状況からすれば、沖縄教区の『沖縄に立つ合同教会をめざして』を参考にして、各

教区がそれぞれ独自に今日の教会の宣教の在り方について考え、何れその積み重ねと対話の中で、

教団の宣教基礎理論を各個教会・伝道所→教区→教団という方向性から考えていくように、今から

準備するようにしたらどうでしょうか。 

 現在の教団執行部の不毛な在り方に影響されないで、それぞれの教区が主体的にそれぞれの地域

共同体の言葉を紡いでいくことに力を注ぐことができたら、力と数の問題ではなく、質と命の問題

として、未来を切り開くことも不可能ではないと思うのです。    



      黙想と祈りの夕べ通信(244[-35]2004・5.30発行)復刻版
 
 5月23日(日)から24日(月)にかけて沖縄教区の総会が宜野湾にあるセンターで行われま

した。私は有志の会である「かながわ明日の教団を考える会」からの傍聴者として沖縄教区総会に

参加させてもらいました。その感想をお話ししようと思いますが、自分の中でもまとまっていませ

んし、言葉で言い表しますと落ちてしまうことが沢山あるのではないかという恐れもありますし、

伝えられるかが心配です。でも、お話しして見たいと思います。私は23日の午後3時から9時過

ぎまでと24日の午前8時30分から午後6時まで、途中昼食や夕食の一時間と10分くらいの休

憩が数回ありましたが、ただ会場に作られた傍聴席に座っていただけでした。総会は坦々と進んで

行きました。しかし、沖縄の教会が背負わされている荷の重さが随所に現われて来るようで、坦々

としていても、ずっしりするものが感じられました。通常ヤマトの教区、特に都市圏の教区なら

ば、意見の違いがある種の対立の形で言い表されるように思われますが、沖縄教区の場合、意見の

違いもお互いに共有する沖縄という場の課題の重さのゆえか、対立の形とはなっては来ないように

思われました。それだけに、T牧師のような現在の沖縄教区にあって、69年の沖縄キリスト教

日本基督教団の合同の前と後の歩みを経験しておられ、沖縄の抱える平和への希求を明確にして

おられる方の発言が、沖縄教区総会の方向性を創り出して行ったと思います。それに対して、立場

を異にし、いろいろ意見はあったとしても、誰も真っ向から反対することは出来ない沖縄の現実が

あるのではないでしょうか。だからと言って、T牧師の言うことを全体が積極的に推進しようとい

うことで一致しているかと言いますと、そうでもないという、微妙な関係が沖縄教区の諸教会と教

職、信徒が置かれているように思われました。そして、そのような沖縄教区の現実に直接的、間接

的に追いこんでいるのがヤマトの日本基督教団ではないかと考えると、そのヤマトの日本基督教団

の一教会の牧師である私自身が、沖縄教区総会から問われているようで、ただじっと座っているだ

けでしたが、自問自答のくり返しでした。日本基督教団との間に「しばらくの間距離を置く」とい

う沖縄教区の方向性が今回の教区総会で確認されましたが、私としては、「合同のとらえなおし」

の問題をこれからも担っていくことによって、沖縄教区との距離を自分なりに埋める努力をしてい

きたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。地区婦人会がK教会であり出席し

た。礼拝の後「阪神淡路大震災で亡くなった子どもたちから聞く」ということでI牧師のお話があ

った。つい大震災は神の審きだと言ってしまったI牧師に、そういう言い方は子を亡くした親には

酷だと指摘され、できる限り子を亡くされた親御さんの言葉を通して亡くなった子どもたちの声を

I牧師は聞こうとされたと言う。震災後行われるようになった子どもコンサートの企画に加わり、

ずっと続けられ、毎年のコンサートのプログラムの裏にメッセージを書いてこられた。そのメッセ

ージをI牧師は朗読してくださった。講師であるI牧師も会場教会としてのK教会も大変よく準備

してくださっていた。当教会の人ももっと多くの人がI牧師のお話を聞けたらよかったと思った。

地区集会には例年100人以上の人が来るが、この日は70人強の参加者で、例年参加する教会か

らも来ていないところが幾つかあった。今日当教会に教区の婦人委員の方たちが7月8日に当教会

で開かれる教区婦人集会の準備のために来られた。その一人の方が社会派の講師の場合集まる人が

少なくなる。教会によっては参加を控えるところもあると言われた。そういう構造によって、違い

をもった人たちが出会えないようになっているとしたら、大変不幸である。対立構造が取り払われ

て、違いをもった人たちが一緒に考えられる日はいつくるのだろうか。社会派という言葉を久しぶ

りに聞いたが、こういう言葉が早くなくなることを祈りたいと思う。



        「聖三位一体」(『ルターによる日々のみことば』より)

 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるよう

 に。            アーメン。      ローマ11:36

 教会歴にある他の祝日は、主のなされたみわざとふしぎのうちに、わたしたちの主を包んでいま

す。キリストの降誕では、神が人となられたことを祝います。復活日には、主がよみがえられたこ

とを祝います。聖霊降臨日には、聖霊が注がれ、教会の基礎がすえられたことを祝います。このよ

うに一年中の他の祝日は、主なる神がなにかのみわざのうちにご自分をあらわされている。そのわ

たしたちの主なる神について語るのです。しかしこの三位一体祝日は、なんのおおいもみわざもな

しに、主ご自身と、その本質において、主がどのようなかたであるかを示すのです。ここであなた

がたはあらゆる理性をこえて高く舞い上がり、全被造物をはるか下にのこし、あなた自身を高くつ

り上げ、神がご自分とご自分の本性についておしゃっていることにのみ耳を傾けなければなりませ

ん。この真理を知る他の方法はありありません。ここで神の愚かさと世の知恵が衝突します。

 それゆえ、わたしたちは、父なる神と、み子と、聖霊が、どうしてひとつの神でありうるかと議

論してはなりません。これはその本質においてあらゆる理性をこえているからです。わたしたちに

とっては、神がご自分についてこのように語られ、みことばのうちにこのようにご自分を啓示され

ているというだけで十分です。

 これは力を与えるメッセージであり、わたしたちの心を神にむかって喜びにみたします。この三

つの位格なる神が、罪と、死と、悪魔から、わたしたちあわれでみじめな人間を救うために、ご自

分をわたしたちの方に向けてくださっていることを知るからです。それによって、わたしたちは義

と、神の国と、永遠の命に入れられます。

                            ヨハネ福音書三章の説教