なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(243)復刻版

 18日(日)から19日(月)にかけて、神奈川教区の社会福祉小委員会主催の第28回「障がい者と教会交

流会」に参加したからです。昨日は帰ってから、やることもあり、また疲れてしまいましたので、このブ

ログをお休みしました。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(243)」復刻版を掲載します。


       黙想と祈りの夕べ通信(243[-34]2004・5.23発行)復刻版
 
 高齢者のホームにいます教会のお年寄りを訪ねました。そのホームにはたまたま教会に関わるお二人の

方が生活しています。お二人とも90代後半の女性です。お一人の方はこれまでもいくつもの老健施設を

移って来られました。この1、2年は私の訪ねる度に、早くお迎えが来て欲しいが、なかなか来ないとい

うことを繰り返しおっしゃっています。同時に早く天国に行きたいと。自分の気づいていながら犯した罪

や知らずして犯した罪も神さまは赦してくださるに違いない。天国ではみんなと楽しく過ごせるからと。

死後の世界としての天国を豊かにイメージしておられるその方のお話を聞きながら、ホームで90代後半の

日々を歩まれておられるその方にとっては、その方の抱く天国のイメージが生きる大きな支えとなってい

るのだと思います。私は以前この教会の伝道師のときに(1974年4月~1977年3月)、一度婦人会でお話を

する機会があり、聖書の神は死んだ者の神ではなく生きている者の神だ、というお話をしました。その当

フェリス女学院の院長で、私の出た神学校の校長であったK先生が紅葉坂教会に出席しておられ、たま

たま婦人会に出席していて私の話を聞いておわれました。後で先生に呼ばれて、君は婦人会に来ている方

の中には老いと死に真剣に向かい合っている人もいるのだから、そういう人のことも考えなければいけな

いと、厳しく諌められました。天国を素朴に信じている方々の信仰も、誰も否定できません。その後私

は、個人がどんな信仰をもっていてもその人の自由だ。ただ、その人の内面を超えて人と人との共同の関

係の世界において信仰について語られる言葉は批判の対象にあるという原則を自分の中に立ててやって来

ています。その自分の原則に従って、教区や教団の中で、歴史や社会の問題を捨象して個人の内面の救済

キリスト教信仰だと主張する立場の人とは批判的な関わりをしています。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言が在りました。一週間沖縄の辺野古の海に行って来た。天

候もよく、防衛施局の人も来なかった。毎日11時間位座り込みをしてきた。海はきれいだった。泊まっ

た民宿は3、4名しか泊まれない、テレビも映らない質素なところだった。いろいろな人に出会えた。私

辺野古に行こうと決めたのは、一人の沖縄の友人の声を聞いたからだ。その人の声を聞いて、矢も盾も

たまらずに行ったが、帰る前日になって、私は何しに来たのかを考えさせられた。辺野古で座り込みをし

ていると、そこに毎日必ずやってくるひめゆり学徒だった人がいた。沖縄の人たちはこの現実から逃れら

れない。その重さの違いが身にしみる。支援にやってきたヤマトの人たちの会話が、沖縄の人の心を傷つ

けることも間々あった。来なかった方がよかったのではと思ってしまった。悲しい。そのことを民宿と辺

野古を送り迎えしてくれた人に話した。その人は、いいのだよ、自分のところでやれば、と言ってくれ

た。戻ったら辺野古の海の現実を多くの人に知らせようと思った。インターネットを開くと、辺野古は昨

日、今日と緊迫している。台風の接近、機動隊の姿を見たという情報もある。祈るしかない。一か月以上

座り込みを続けている人たちは、疲れが極限に達している。平和の日々が来るようにと祈りたいと思う。



       「キリストによる祈り」(『ルターのよる日々のみことば』より)

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも

 望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
 
                            ヨハネ15:7

 キリストからはなれた生活は、みじめなものです。そこにはげしい働きがあり、しかも実はみのりませ

ん。いっしょうけんめいに祈り、求め、たたいてもなにも得られません。見つかりません。なしとげられ

ません。それは正しいとびらをたたいていないからです。それは彼らのなすことも祈ることも、信仰なし

に他の仕事と同じようにしているからです。彼らにはなんの慰めも信頼もありません。神に喜ばれると

か、聞かれるという確信もないのです。そしてそれゆえにこそ彼らは決して祈らないのです。わたしがし

ばしば言ったことですが、祈りは信仰のみによるわざであって、キリスト者だけがすることができるから

です。キリスト者は、自分に信頼して祈るのではなく、彼らが洗礼を受けてた神の子の名に信頼して祈る

のであり、このような祈りは、神に喜ばれることを確信しているからです。神はキリストのみ名によって

祈るようにお命じになり、また、その祈りは答えられると約束しておられます。他の人々は自分の名によ

って祈りはじめ、彼らが正しく、価値あるものとなり、いさおしを得るまで、自分を準備するために長時

間を要しますが、しかもこの真理を知りません。彼らにむかって、あなたの祈りが聞かれたかどうか確信

していますかと聞くならば、彼らは答えるでしょう。わたしは祈りました。しかし、わたしたちの祈りが

答えられるかどうかは、神のみがご存知です。しかし、今自分が何をしているかわからず、神がどのよう

に答えてくださるのかもわからないのに、いったいどんな祈りができるというのでしょうか。しかし、キ

リスト者は祈りから出発するのでなく、神のご命令と約束に対する応答として祈りをはじめますから、祈

りをキリストのみ名によって神へのそなえものとします。そして自分の祈ったことが決してこばまれない

ことを知り、どんな悩みの時にも助けを受けることを体験してゆきます。

                                ヨハネ福音書15章の講解