なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(49)

6月12(日)聖霊降臨節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編971-13節(讃美歌交読文106頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙11章17-24節(新約290頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  437(行けども行けども)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-437.htm

⑨ 説  教   「神に慈愛と峻厳」     北村慈郎牧師

  祈  祷

                                                               

  • 今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の箇所の一つの言葉は、大変印象深く、心に残るものであります。それは22節の言葉ですが、私は口語訳で慣れ親しんでいましたので、口語訳で紹介したいと思います。

 

  • その言葉は、「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳)です。この言葉が、今日の聖書箇所である11章17節から24節までの有名な「接ぎ木の譬え」の中に出て来るのです。

 

  • まず最初に、先ほど司会者に読んでいただきましたので、もうお分かりかと思いますが、この接ぎ木の譬えの全体を思い起しておきたいと思います。この接ぎ木の譬えの木は、オリーブの木です。野生のオリーブと栽培されているオリーブにおいて、栽培されているオリーブはイスラエルユダヤ人)に譬えられ、野生のオリーブは非ユダヤ人である「異邦人」に譬えられています。前回でも触れましたように、この箇所に出て来る接ぎ木の方法は、農業の実際とは相容れないことが指摘されています。<実際には、野生のオリーブを台木とし、その枝を切り取って、そこによい花や実のなる栽培の木の枝を接ぎ木します。しかしパウロは逆に栽培のオリーブを台木にして、野生のオリーブの枝をそれに接ぎ木すると言っている>のです。

 

  • パウロは、この接ぎ木の譬えで、接ぎ木の仕方を問題にしているのではなく、彼の趣旨と意図を伝えようとしているのであります。それは、イスラエルはその不信仰の故に神の峻厳(厳しさ、裁き)によって、神に栽培されたオリーブの枝であったにも拘わらず、切り取られてしまった。逆に野生のオリーブの枝であった非ユダヤ人である異邦人がその信仰の故に、神の慈愛によって栽培されたオリーブの台木に接ぎ木された。異邦人は信仰によってそこにとどまり続けるならば、切り取られることはない。しかし、<もしとどまらないならば、あなたも切り取られるでしょう>(22節、新共同訳)と言っているのであります。

 

  • この野生のオリーブの枝が栽培されたオリーブの台木に接ぎ木される譬えにおいて、パウロは異邦人を「あなた」という二人称単数で呼びかけています。13節では「あなたがた異邦人」と二人称複数になっていますので、この接ぎ木の譬えで異邦人を「あなた」と呼びかけているのには、そこにパウロの思いがあると思われます。それは何でしょうか。

 

  • パウロは、神の峻厳によって切り捨てられた栽培されたオリーブの枝であるイスラエルユダヤ)人のように、神の慈愛にとどまっていなければ、栽培されたオリーブの根に接ぎ木された野生のオリーブの枝である「あなた」も、神の峻厳によって切り取られてしまうだろう。だから「思いあがってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節)と、信仰にとどまり続けるように、神の慈愛にとどまり続けるようにという強い思いをもって異邦人に「あなたは」と呼びかけているのです。そのパウロの思いが「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳)に凝縮されているのです。

 

  • <彼ら(イスラエル人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう>(23,24節、新共同訳)。

 

  • これが、この接ぎ木の譬えでパウロが語っていることです。バルトは、このパウロの接ぎ木の譬えでのイスラエルユダヤ)人と「異邦人」を、「教会」と「外の人たち」に置き換えて、このように言っています。<優秀なオリーブの木の枝が切りとられとは、教会の棄却されることである。野生のオリーブの枝がその優秀な木のかわりにつぎ木されるとは、外の者たちが選ばれることである>(『ローマ書講解』)。このことは、信仰が不信仰に、不信仰が信仰にということが、いつでも起こり得るということを意味しているのではないでしょうか。この箇所から、先ず、そのことを学びたいと思います。

 

  • イスラエルユダヤ)人は、神の自由な選びによって契約の民とされました。その父祖アブラハムが選ばれたのもそうです(創世記12章)。アブラハムはその神の選びに信仰によって応えたのです。出エジプトの出来事を想い起せば、エジプトで奴隷の民であったイスラエルが、エジプトから脱出し解放されたのはモーセを指導者に立ててそれを企てた神ヤハウエによる奇蹟であることが分かります。この出エジプトの出来事も、神の自由な選びによるのです。モーセも神の招きに信仰によって応えたのです。ところがイスラエルユダヤ)人は、この神の選びを、いつの間にか自分たちには神の選びにふさわしいものがあるという、自己の誇りにしてしまったのです。神の選びは、イスラエルユダヤ)人にとっては神の恵みであり、彼らが唯一しなければならないのは、その神の選びに留まり続けることでした。

 

  • 信仰は、人間の中にある敬虔さというような人間の力ではありません。イスラエルユダヤ)人は、信仰を敬虔のような人間の中にある力と誤解したのではないかと思われます。ですから、彼らは神によってかく生きよと命じられた、定めである律法を自分の力で守ろうとしたのです。それが、パウロの言う「信仰による義」ではなく「律法による義」です。イスラエルユダヤ)人は、その自己の義を誇り、律法を守ることの出来ない「異邦人」を汚れた者として差別したのです。

 

  • 信仰によって神の慈愛にとどまり続ける。それは、私たちにとっては神の慈愛の現れそのものであるイエス・キリストにとどまり続けるということではないでしょうか。イエス・キリストを信じる者の群れ、それが教会です。教会はキリストの共同体、キリストのからだと言われます。イスラエルユダヤ)人は、その歴史の中で、神の契約の民とされながら、ユダヤ教団という宗教的な教団に自らを閉じてしまいました。そのことによって彼らは神の招きからそれてしまったのです。神はイスラエルユダヤ)人を契約の民として選ぶことによって、全世界の人々を罪から救おうとされたのですが、イスラエルユダヤ)人はそれに応えることができなかったのです。キリストの共同体、キリストの体である教会は、契約の民であるイスラエルユダヤ)人に代わって神の救済の担い手とされたのです。

 

  • 先週関田先生は説教の中で自分の言葉で語ることの大切さをおっしゃっていましたが、ここでまた、ボンフェッファーからの引用をさせてもらいたいと思います。私たちがこうして毎日曜日礼拝をし、船越教会という教会の形成に参与しているわけですが、この教会とは何かという根本的なことが、日本基督教団という教会の現状には見失われているのではないかと思えてならないからです。

 

  • ボンフェッファーは、『主のよき力に守られて 一日一章』の6月10日のところで、「キリストのからだ――教会――人類」と言う表題でこのように述べています。
  • 【キリストにおいて「神の前における人間のかたち」が新しく造られた。そして人類は、自分のとるべきかたちと、希望を知った。これは、ある特定の場所、時代、風土、人種、個人、集団、宗教、好みに関することではなく、全人類の生に関することである。キリストにおいて起こったことは、全人類に起こったことなのである。それなのに、人類の中の少数の者だけが、この救い主のかたちを知るだけであるということは、説明し得ない謎である。<すべての人間がこのかたちを取るように>という「人となった方」の願いは、今日に至ってもまだ満たされていない。「人間そのもののかたちを取った方」は、ただ小さな群れの中でのみ、かたちを取る。――これがすなわちキリストの教会である。

 

  • 深い、しかも明瞭な洞察に基づいて、新約聖書は、教会を「キリストのからだ」と呼んでいる。教会はキリストを崇拝する者たちが集まってできた宗教団体ではなく、人間の間にかたちを取ったキリストなのである。しかしそのようなものであるにもかかわらず、キリストのからだは「教会」と呼ばれることを許されている。なぜなら、イエス・キリストのからだにおいて、現実に、人間そのものが、またすべての人間が、受け入れられているからである。教会は今や実際に、全人類にあてはまるかたちを取る。教会を形づくる「像」は、人類の「像」でもある。教会において起こることは、すべての人間のための模範として、あるいはすべての人間の代理として起こることである。教会は、実際にイエス・キリストのかたちが形づくられる「人類の一部分」にほかならないのである。ここで問題となるのは、ただイエス・キリストのかたちだけなのであって、それと並ぶ別のかたちではない。教会は、キリストにおいて人となり、さばかれ、新しい生命へと呼び出された人間である。したがって教会は本質的に、いわゆる「人間の宗教的権能」に関わるのではなく、さまざまな関係をもちつつ、この世界に実際に生きている人間の全体に関わるのである。教会においては宗教が問題なのではなく、「キリストのかたち」と、それが人間の小さな群れの中で「かたちを取ること」が問題なのである】。

 

  • また、長い引用になってしまいましたが、今日の接ぎ木の譬えで、パウロが栽培されたオリーブの台木に接ぎ木された野生のオリーブの枝である異邦人に、「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳)と警告して、信仰によって神の慈愛にとどまり続けることを切に求めているのは、接ぎ木された異邦人が「キリストのかたち」を保ち続けてもらいたいからです。

 

  • 私たちにとって、栽培されたオリーブの台木はイエス・キリストです。信仰によって私たちはそのイエス・キリストに接ぎ木されたのです。パウロの別の譬えによれば、一つの体と多くに肢体でも同じことが語られています(第一コリント12:12以下)。そこでは、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)と言われています。

 

  • 「神の慈愛と峻厳を見よ」。宗教団体となった教会は、キリストのからだではありません。神は、それを切り取られた栽培されたオリーブの枝のように切り取られるでしょう。神の峻厳を見よ。しかし、神の慈愛は、新しい野生のオリーブの枝を栽培されたオリーブの台木に接ぎ木して、更に切り取られた栽培されたオリーブの枝をも、信仰を呼び起こすことによって、再び接ぎ木することができるのです。

 

  • 私たちは、この神の慈愛と峻厳の前に立って、信仰によってイエス・キリストにしっかりと結ばれて、小さな群れではありますが、キリストのからだとして、キリストのかたちを取るものでありたいと願います。主がそのように私たちを導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちは日々起こるさまざまな出来事に翻弄されて、あなたの慈愛と峻厳を見ようとしないで生活していることの多い者です。そのようにして、いつの間にか、あなたの慈愛によってキリストのからだである教会の一員に加えられた恵みと使命を、おろそかにしてしまっています。み心ならば、私たちに信仰を与えてくださり、イエス・キリストとしっかりと結びつくようにしてください。私たちの教会は小さな群れですが、

少しでもキリストのかたちに近づくことができますように、お導きください。

  • 神の慈愛と峻厳を見続けながら生きることができますように!
  • ウクライナでの戦争が長くなっています。速やかに停戦が実現し、ウクライナに平和が来ますようにお導きください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     475(あめらうよろこび)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-475.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。