なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(25)

     「太陽と雨」マタイ5:43-48、 2019年3月3日(日)船越教会礼拝説教


・「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害す

る者のために祈りなさい」。これが、マタイによる福音書の山上の説教で5章21節以下に「しかしわたし

は言っておく」という形で記されていますイエスの教えの最後になります。


・けれども、今なお実際の私たちの生活の中では、「隣人を愛し、敵を憎む」というあり方が常識的に思

われます。身近な隣人である家族は大切にしますが、赤の他人は家族と同じようには大切にはできませ

ん。同じ宗教を信じる者同志は大切にできても、他宗教の人たちを同じように大切にはできません。同じ

民族・国家に属する人は大切に出来ても、異なる民族・国家に属する人たちを同じように大切にすること

はできません。同じ人間同士の中にいくつもの壁があって、その壁のこちら側の人とあちら側の人が隣人

と敵という風にみられてしまうのです。


・実際イエスの時代のユダヤ人にとりましても、隣人とは同じユダヤ民族に属する人であって、ユダヤ

以外の非ユダヤ人、「異邦人」に対しては、「犬」と言って差別していました。イエス自身も、悪霊に憑

りつかれた娘を持つ非ユダヤ人=「異邦人」の女が娘を癒やしてもらいたいとの願いをもって、「主よ憐

んでください」と言ったとき、最初は何も答えられませんでした。それでも叫びながらついてくる女を見

て、弟子たちは「この女を追い払ってください」とイエスに言います。すると、イエスは女に向かって

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのです。しか

し、女は引き下がらず、イエスの前にひれ伏して、「主よ、どうかお助け下さい」と言いました。する

と、イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言ったというのです。「子供たち」

ユダヤ人、「小犬」は非ユダヤ人、つまり「異邦人」を指しています。イエスも当時のユダヤ人同様、

ユダヤ人=「異邦人」を差別していたのです。ところが、女が「主よ、ごもっともです。しかし、小犬

も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と言うと、イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

あなたの願い通りになるように」と言われて、その女の娘の病気を癒やされたというのです(マタイ15:2

1-28)。


・隣人と敵を区別して、敵に対しては何らかの憎しみや敵対的な意識を持っている関係においては、今日

の山上の説教のイエスの教えを実行するのは無理です。イエスがどんなに「しかし、わたしは言ってお

く。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と私たちに教えても、隣人と敵を区別している限

り、私たちはそのイエスの命令を実行することは不可能なのです。


・ですから、このイエスの教えは神に身を捧げて修道院で生活するような特別の人が守るべき教えで、一

般の世俗の中で生活している信者にはとても守れる教えではないと考えたことも、教会の歴史にはありま

した。あるいは、宗教改革者のようにこの教えは、山上の説教の他の教えと共に、私たちが死すべき罪人

であることを、のっぴきならぬ形で突きつける断罪者の役割を果たすものであると考えました。「だから

こそわれわれは、常に繰り返し主の十字架にすがって、その御赦しを仰がざるをえぬ者とされる。ここに

おいて、ただ信仰のみによって赦しにあずかることができるというパウロ的義認論が大きな慰めとなっ

た」訳であります。


・高橋三郎さんは、「しかしこの義認の恵みを中心的主題として論述しているローマの信徒への手紙の中

にも、「自分で復讐せず、[神の]怒りに委ねなさい」(12:19)という戒めがあり、「むしろ、あなたの敵

が飢えれば彼に食を与え、渇けば彼に飲ませなさい」(12:20)とすすめた後、「悪に負けるな。善をもっ

て悪に勝て」という言葉でパウロはここを結んでいる。」これはイエスが敵を愛せよと戒めた教えの、パ

ウロ的表現と言うことができよう」と言っています。


・けれども、私たちの伝統的な信仰理解からすれば、パウロの信仰義認は最終地点となってしまい、そこ

からイエスの敵を愛せよと戒めた教えの、パウロ的な表現とされる「悪に負けるな。善をもって悪に勝

て」という、信仰者の具体的な生き方を生み出してきたかというと、あやしいのであります。


・むしろ、少なくとも私たちが属する日本基督教団におきまして、私が牧師になりました1969年以降、信

仰者の具体的な生き方が問題になると、「行為義認主義者」とか、「社会派」というレッテルを貼って、

あたかもそういう考え方をする者は異端であるかのように否定する人々がいました。それは今でも同じか

も知れません。そこには、本来イエスの福音は、自己中心的な私たちが敵をさえ愛する者に変えられる、

その私たちの生き方の変革ではなかったかと思います。それがパウロ以降生き方より教えの方が優位に

なってしまったというキリスト教のイエス受容に問題があるのではないでしょうか。


・「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と戒める教えを語ったイエスは、「あなたがたの天の父の子と

なるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくだ

さるからである」(45節)と語られました。


・この「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方

だというこの言葉は、私自身繰り返し繰り返し想い起こしています聖書の言葉の一つです。


・実は「敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」というイエスの戒めの教えが語られる土台は、この言葉が指

し示す神の無条件の愛、その神の恵みに与らない者は誰一人いないということなのです。この太陽と雨の

恵みに譬えられる、無条件にすべての人に注がれている神の愛、その恵みの下にいていいのだ、生きてい

いのだ、という無条件の絶対的な神の肯定の上に、敵を愛し、迫害する者のために祈れという戒めがある

のです。太陽と雨の恵みの下には隣人と敵という分け隔ては全くあり得ません。


・私たちが勝手に分け隔てている隣人であろうが、敵であろうが、神はその一人一人を徹底的に追い求

め、受け入れ、極みまで大切にしたもうのです。その神の愛に身を委ねるとき、その人間がこの世界の中

で神の光を映し出します。


・先程紹介した悪霊に憑りつかれていた娘を持つ非ユダヤ人=異邦人の女とイエスとの出会いでは、最初

エスは、当時のユダヤ人同様、ユダヤ人を「子供たち」と言い、非ユダヤ人=「異邦人」を「小犬」と

言って差別していました。この時イエスは、両者の区別・差別を超えて全ての人々に注がれている太陽と

雨に譬えられる神の愛の恵みを、ユダヤ人にのみ注がれていると理解していたように思われます。しか

し、執拗に食い下がる女によって、イエスは、人と人との間にある区別・差別の壁を越えた、神の愛の恵

みの優位性を想い起こし、その恵みを非ユダヤ人=「異邦人」の女の娘にも注がれたのでしょうか。この

女によって、イエス自身もユダヤ人として当時のユダヤ社会の中にあった、ユダヤ人を「子供たち」と呼

び、非ユダヤ人=「異邦人」を「小犬」と呼んだ、歪んだ人間観を糺されて、自らが語った「敵を愛し、

自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉に忠実に振舞うことができたのでしょうか。


・それだけに、今日の山上の説教のイエスの言葉は、言葉としての素晴らしさに魅了されるだけであって

はなりません。そのためには、この現実の社会に存在する人と人とを分け隔てして、差別を正当化する考

えや行動を賢く見分けて、それに抗い、その考えや行動の不当性を主張し、「敵を愛し、自分を迫害する

者のために祈りなさい」とのイエスの教えに従って生きていかなければなりません。


・私は今月末に「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」の全国

集会で話をすることになっています。そこで沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同の問題について、

いろいろな資料を読んでいます。読めば読むほど、日本基督教団日本基督教団の教会に所属するヤマト

の者は、私たちもそうですが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」どころではないとい

うことを思わされています。日本基督教団は、1941年に国家の力による合同とは言え、6部・9部のホーリ

ネス教会の牧師だけではなく、沖縄の仲間も切り捨てた歴史を抱えています。沖縄は日本国家によって、

国家を守るための捨石にされて、沖縄戦を経験し、今も日本全体の米軍基地の70%も沖縄に集中している

のです。辺野古新基地建設では沖縄県民の反対の意志が示されていても、政府は辺野古新基地建設を止め

ようとはしません。政府は今でも沖縄に対して植民地的に対応しているとしか考えられません。


・そのような日本国家の沖縄を見る味方と沖縄差別を、日本基督教団という教会も共有してきたのです。

その反省から1969年に沖縄キリスト教団と日本基督教団は合同し、その後その69年の合同は、沖縄キリス

ト教団の日本基督教団への、大が小を呑み込む吸収ではなかったのかという反省から、1978年以降「合同

のとらえなおし」の作業が進められて来ましたが、2000年前後に日本基督教団としては頓挫してしまって

います。そのために私が所属する先ほど申しました「連絡会」は、有志によってこの問題を担っていこう

としているグループなのです。


・隣人であるはずの沖縄の仲間をさえ、切り捨てて来た私たちは、この「敵を愛し、自分を迫害する者の

ために祈りなさい」というイエスの言葉を、どのように聞いたらよいのでしょうか。イエスも最初は私た

ちと同じ隣人と敵を区別する差別者でしたが、そのような差別性を捨てて、「父(なる神)は悪人にも善

人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という信仰によって、その

生を貫き十字架の人となりました。神はそのイエスを復活させて、今も生きたもう復活のイエスの下に私

たちを招き集めて、私たちをイエス・キリストのからだとして形成してくださっています。私たちは、敵

どころか私たちの隣人をさえ裏切って生きて来た自らを断ち切って、イエス・キリストの体の肢体(え

だ)として生きていきたいと願います。他者を区別し、差別する様々な観念や差別的な言動に惑わされることなく。「父(なる神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ

てくださる」という信仰をしっかり持って。人と人との隔ての壁を乗り越えていきたいと思います。