使徒言行録による説教(81)使徒言行録22:6-16、
・私たちの中には、ある出来事やある人との出会いによって自分が変えられたという経験を持つ人も多いと
思います。身近な方では、2011年3月11日の東日本大震災における東京電力福島第一原発事故を契機に、反
原発の運動に目覚め、毎週金曜日の国会前の抗議集会に行っているIさんがいらっしゃいます。そのような
経験はIさんだけではないと思います。またキリスト者である私たちは、イエスとの出会いによって自分の
生き方が変えられたという経験を、何らかの形でもっているのではないでしょうか。
・パウロも、キリスト教徒を迫害するためにダマスコにいく途上で、復活の主イエスとの不思議な出会いを
経験しました。この出会いは、6節に記されていますように、まず天、からの強い光として感じられました。
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天からの強い光がわたしの周りを照らしま
した」とあります。真昼とは、昼の真ん中、正午のことです。真昼は太陽が最も照り輝いている時でありま
す。その時に、「突然、天からの強い光がわたしの周りを照らしました」というのですから、その天からの
強い光は、太陽の光に勝る強烈な光だったことを意味します。
・その時、パウロは<地面に倒れてしまいました。そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」
という声を聞いた>というのです。パウロが<「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、
あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えがありました>(8節)。サウルはパウロのユダヤ名
です。このときパウロはまったく思いがけず「なぜ、わたしを迫害するのか」という天からの声が自分に語
りかけるのを聞いたというのです。パウロは、一人のユダヤ人として、「熱心に神に仕え」、キリスト教徒
を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしていた人間です(22:3,4)。そのことが神の
教えにかなっていると信じていたのですから、パウロにとって、この天からの声は大きな驚きであったに
違いありません。
・その時、パウロと一緒にいた人々は、その光は見たのですが、パウロに話しかけた声は聞こえませんでし
た。その声は、パウロだけに聞こえたものでした。そしてその天からの声はパウロにとっては神ご自身の声
でありました。パウロは、自分が迫害していたキリスト教徒がイエスご自身でもあるということを知って、
愕然としました。そして、キリスト教徒を迫害することが神の御心にかなうことであるというこれまでの自
分の考えを捨てなければならないと考えました。彼の今までの生き方が根底から覆させられたのです。しか
し、それでは今後どのように生きていけばよいかということは未だわかりませんでした。
・そこで、パウロは<「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねると、主は「立ち上がってダマスコに行
け。しなければならないことは、すべてそこで知らせる」と言われました>(10節)。しかし、このとき時パ
ウロは、自分の力ではもはや前に進むことができなくなっていました。そこで、「わたしは、その光の輝き
のために目が見えなくなっていましたので、一緒にいる人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました」
(11節)と言われているのです。
・ダマスコには、アナニヤという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるす
べてのユダヤ人の中で評判の良い人でした」(12節)。使徒言行録9章のパウロの回心物語では、アナニヤは
キリスト教徒とされています(10節「弟子」)。ですから、アナニヤはユダヤ人の中で律法を守る模範的な人
物であり、しかもキリスト教徒であったのでしょう。
・当時ユダヤ人キリスト教徒の中には、そのような人がいたと言われています。エルサレム会議においてエル
サレム教会を代表した、イエスの弟であるヤコブはユダヤ教徒からも認められていた義人の誉れが高い人だっ
たと言われています。当時エルサレムを中心としたユダヤの国では、ローマに対する反発が段々強くなってい
て、短刀を懐に入れてローマの要人を暗殺するテロリストの活動もあったと言われています。ユダヤ人社会の
中に民族主義的な運動が強くなっていくに従って、エルサレムの教会はユダヤ人からも認められていたヤコブ
のような人物を教会の代表的な指導者に立てていったものと思われます。そのヤコブさえ、エルサレムが熱狂
的な反ローマになっていき、60年代にはローマとの戦争を引き越すことになってくのでありますが、そのプロ
セスで殉教することになるのです。
・使徒言行録9章では、アナニヤは主イエスからパウロの所に行くように派遣されています。そして15章16節
にはこのように記されています。「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝え
るために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼
に示そう」と主イエスが語っています。主イエスからパウロのところに遣わされたアナニヤは、目の見えなく
なっているパウロを癒します。
・今日の使徒言行録の所に、「この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、
元どおり見えるようになりなさい』。するとそのとき、わたしはその人を見えるようになったのです」(13節)
とある通りです。それだけでなく、アナニヤはパウロに新しい生(新しい道)を示して、このように語りかけ
ています。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会
わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは見聞きしたことについて、すべての人に対してその方
の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を
受けて罪を洗い清めなさい」(14-16節)。
・「わたしたちの先祖の神」とは、ユダヤ人の先祖すなわちアブラハム、イサク、ヤコブに現れた神というこ
とです。旧約聖書においてご自身を現わされた神です。そしてその神はパウロが熱心に信じて来た神でもあり
ます。その神がパウロを選んだというのです。この選ぶと言う言葉は、このところの本田訳のように、「おま
えをご自分の手の中におく」ということです。エレミヤの召命の記事にありますように、「主の言葉がわたし
に臨んだ。/わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを思っていた。/母の胎からわたしはあなたを
聖別し、/諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:4,5)。すなわち、神はパウロがこの世に生まれる前
からパウロを御手のなかにとって、イエスを証しする者となるように育て、導いてこられたというのであり
ます。
・「それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです」と言われていま
す。神がパウロを選んだのは、パウロに神の御心を悟らせ、「正しい方」すなわちイエスに会わせ、イエスの
口からの声を聞かせるためだったというのです。死から甦った復活の主イエスと出会い、そしてその主イエス
からの声を聞くということは、パウロのみならず、私たち一人ひとりにとっても決定的なことです。パウロ
は自ら選んでというよりも、選ばれて、イエスとの出会いの経験をし、イエスの証人としてイエスの福音を全
ての人に語っていくことになったのです。「すべての人に」と言われています。ユダヤ人だけではありません。
非ユダヤ人(異邦人)だけでもありません。ユダヤ人にも非ユダヤ人(異邦人)ということです。
・この神の選びは、パウロにとっては、かつての自分のユダヤ教徒としての生き方が、復活の主イエスに出会
って、イエスから「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と言われて、とんでもない間違いだったと
気づかされた時の衝撃に、優るとも劣らない衝撃だったに違いありません。「生きているのは、もはやわたし
ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と、パウロ自身が告白してい
ることからも分かります。しかし、この神の選びによって、パウロは自分の生き方が定まり、イエスの証人と
してその後のパウロの生涯をささげて生き抜くことになるのです。
・だからと言って、パウロが完全な人間になったということではありません。イエスの証人としてのパウロ
は、人間としての弱さをかかえ、誤りも繰り返したに違いありません。けれども、イエスの証人として、イ
エスの福音によって最も弱い人を中心にすべての人が招かれている神の国(神の支配)を信じ、イエスの負
われた苦しみを自ら負いつつ、イエスに従って生きたのではないでしょうか。
・イエスの信じる者の中には、多かれ少なかれ、パウロがした信仰的な経験を共有しているのではないでしょ
うか。私は高校3年生のクリスマスに洗礼を受けました。そのきっかけは友人に誘われて教会に行くようにな
ったことです。しかし、自分の内的な問題としては、二つのことで悩んでいました。一つは、身近な他者(私
の場合は病気で全身動かなかった母です)の求めに応えず、自己中心的に生きる自分です。聖書的には罪の問
題と言ってよいかもしれません。もう一つは、この自分の問題に通底しているのかも知れませんが、人は人を
裏切るという問題です(これは父の会社倒産とうことから感じました)。友人に誘われて教会に行くようにな
って、私は1ヶ月半で洗礼を受けました。その時の私の確信は「イエスは裏切らない」でした。聖書もあまり
読んでいませんでしたし、当時の礼拝での牧師の説教もよく分かりませんでした。けれども、直感的に人を裏
切らないイエスとの関わりに自分をかけていこうと思いました。
・ その決断が正しかったかどうかは分かりません。でもそこで与えられた、自分なりにイエスに従って
生きる道が間違いだったとは、それ以来一度も思ったことがありません。そして今も、とぼとぼとですが、そ
の道を歩んでいけることに、自分としては喜んでいます。
・大変厳しい問題が山積し、また苦しみ悲しむ人の叫びがあふれている今日の社会の中で、イエスの証人の一
人として、最も苦しむ人と共に歩まれたイエスの福音を共に生きることが許されていることに、かけがえのな
い喜びを見出すことができれば幸いに思います。