使徒言行録による説教(83)使徒言行録22:30-23:11、
・神を信じ、イエスをキリストと告白する者は、究極的なもの、永遠の命の光によって自分が今あるとい
うことを確信している者のことではないでしょうか。ヨハネ福音書の3章16節に有名な言葉があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永
遠の命を得るためである」と。「永遠の命」とは「永遠に意味ある生」(鈴木正久)であります。永遠に
意味ある生とは、国や民族が違っても、時代が違っても、性差や年齢が違っても、能力の違いがあっても、
人間である以上全ての人を生かす命に生かされて生きることではないでしょうか。
・先日国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに参加して、数名の女性たちと参議院会館前の道路に座
り込んでいました。すると二人の比較的若い方で右翼と思われる国粋的な思想の持主のようでしたが、民
主党のある議員の名前を挙げて、音量の大きなスピーカーで、一方的な誹謗中傷の言葉を吐いていていま
した。大きなスピーカーの音ですから、聞きたくなくても聞かされてしまうのですが、言っている内容は
聞くに堪えないもので、その非難も表面的で、その人自身も自分の中からでた言葉というよりも、人に言
わされている感じで、そういう役割を担わせられているのだろうと思いました。その二人が参議院会館前
から衆議院会館前に移動して、そこでもいろいろと言っていましたが、その中に関東大震災の時の朝鮮人
の虐殺は事実として全くなかったのだということを言っていました。日の丸一番という国粋主義者は日本
人以外の他者の存在を容認することができません。日本人という相対的な一民族を絶対のものとする錯誤
は、究極以前のものを究極のものとする生き方以外の何物でもありません。
・もし究極のものを信じる人と、究極以前のものを信じる人とが向かい合った場合、どうなるでしょうか。
それは、今日の使徒言行録のパウロとユダヤ人の間で起こっている関係のようならざるを得ないのではな
いでしょうか。
・今日の使徒言行録の箇所は、千人隊長が、なぜパウロがユダヤ人に訴えられているのか、確かなことを
知りたいと思って、祭司長たちと最高法院全体を召集して、彼らの前に鎖を外したパウロを連れていき、
両者を引き合わせます。パウロはユダヤ人を代表する人々の前に立たされたのです。高橋三郎さんは、非
ユダヤ人(異邦人)である千人隊長がユダヤの最高法院を召集し、その議会の中にいるということは歴史的
には考えられないが、これは使徒言行録の著者ルカの文学的構成で、ここにはパウロが代表するキリスト
教と大祭司たちや最高法院の議員が代表するユダヤ教を接続させようとするルカの意図があると言います。
そしてこの時に、キリスト教とユダヤ教が接続していれば、つまり敵対関係ではなく、何らかの相互理解
が成り立っていれば、後のキリスト教によるユダヤ教の迫害もなかったのではないかと言うのです。ルカ
はユダヤ教からキリスト教への断絶ではなく連続を頭の中では描いていたのかも知れません。
・ユダヤ人を代表する人々の前に立たされたパウロは、<そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて
言った>(23:1)というのです。この「見つめて」という言葉は、「じっと見る」、「眼をそらさないで見
る」ということで、パウロは堂々とした態度で臨んでおり何の不安やおそれもなかったことを示しています。
恐れることなく相手を直視している姿です。そしてこのようにパウロは言ったのです。
・<「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」>(23:1)
と。パウロはユダヤ人に対する演説の最初にも「兄弟であり父である皆さん」(22:1)と語り出しています
が、「兄弟たち」とは、同じユダヤ人として同胞に対する親愛の情をもって語り掛ける呼びかけの言葉です。
5節でも6節でも同じようにパウロは呼びかけています。「わたしは今日に至るまで、あくまで良心に従って
神の前で生きてきました」とは、自分には何のやましいこともないという、身の潔白の主張です。ここでの
「良心」は神に対する人格的責任を意味します。「生きてきた」とは、文字通りに訳せば「市民として生活
してきた」となります。ですから、神の意志に従って、何よりも神に喜ばれるように市民として生活してき
たというのです。ある人はこのところをこのように言っています。「彼(パウロ)は神の前に明らかな良心
にしたがって行動し、神の国の市民としてふさわしく生活してきた」と。
・これに対して、大祭司アナニヤは、パウロの近くに立っていた者たちに、パウロの口を打つように命じま
した(23:2)。大祭司アナニヤは、事実に即して審理をすすめようとするのではなく、頭ごなしにパウロの
有罪を確信し、こらしめの鉄拳をふるわせたのです。これは明らかに不法行為だったので、パウロは直ちに
これをとがめて、大祭司に向かって言いました。<「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなた
は律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するので
すか>(23:3)この「白く塗った壁」という言葉は、イエスが「偽善な律法学者、フォリサイ人」に対して
「白く塗った墓に似ている」(マタイ23:27)と言われた言葉を想い起させます。外見は美しく塗り飾られて
いるが、内側は違うといことなのでしょう。
・すると、近くに立っていた者たちが、パウロに<「神の大祭司をののしる気か」とたしなめたので、パウ
ロも<兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに、「あなたの民の指導者を悪く言うな」
と書かれています>(23:5)と言って、自分の非を認めたとうのです。
・さて最高法院の議員たちの中にはファリサイ派とサドカイ派がいました。パウロはこの両者の対立点をと
らえて、<「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いてい
ることで、わたしは裁判にかけられているのです」。>(23:6)言ったため、両者の間に論争が起こり、大
騒ぎになったというのです(23:9)。これも実際にあったというのではなく、恐らく使徒言行録の著者ルカ
の構成による物語ではないかと思われます。ファリサイ派とサドカイ派は復活や天使や霊の存在を認めるか
否かで対立していました。ファリサイ派はそれらを認めていましたが、サドカイ派は認めていませんでした。
それは、「サドカイ人はモーセ五書のみを拘束力あるものと認め、これを字義どおりに解釈したのに対して、
ファリサイ人は五書以外の預言書や諸書にも同等の権威を認め、しかも時代の推移に応じてこれを解釈する、
という基本的立場の相違から由来したものです」。ルカはこの三つの争点をここで取り上げたのは、両者が
そのことを巡って分裂すると見たからです。事実23章7節以下にはサドカイ派とファリサイ派の論争が起こり、
その論争が激しさを増していったので、千人隊長は、<パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと
心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力づくで助け出し、兵営に連れて行くように命じ
た>(23:10)というのです。
・この場面を読む限り、最高法院の議会が開かれて、そこにパウロが立たされて審議され裁かれるはずなの
に、パウロによって逆に最高法院の実態が暴かれているかのような描かれかたをしているのです。そのこと
によって、千人隊長が、パウロがなぜユダヤ人に訴えられているのか、確かなことをしりたいと思って、最
高法院の議会を開かせたにも拘わらず、その目的を果たすことができなかったことになります。そして、最
高法院がパウロを裁くはずが、パウロによって大祭司アナニヤを初め最高法院の議員たちが裁かれていると
いう逆転現象が起こっていると言えるのではないでしょうか。
・兵営に連れて行かれたパウロは、その夜彼のそばに主イエスが立って、「勇気を出せ。エルサレムでわた
しのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と告げられたというのです
(23:11)。「勇気を出せ」は本田哲郎さんの訳では「きぜんとしていなさい」となっています。
・独善に陥ってはなりませんが、イエスを信じる者は毅然として、パウロのように大祭司に対しても、議会
に対しても、暴徒に対しても動じないものがあるのではないでしょうか。パウロは、「わたしは今日に至る
まで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と言います。
・<マルティン・ルターは1521年4月17日にウオルムスの国会でチャールズ五世の前に立たされ、うず高く
積まれた自分の著書を取り消すかと問われた。彼は一夜祈りに過ごして、翌日、聖書または明瞭な道理に由
って誤りが指摘されぬ限り、自分のしゅちょうを撤回しないと言った。そして、「私の良心はすでに神の言
にとらえられている。私は良心に逆らって行動することができない。神よ助けたまえ。アーメン>と結んだ
と言われています。
・聖書のことばにとらえられしまったルターは言った。良心に従って生きるとは、神の言に徹底的に服従し
て、具体的な生活の場を生きることである。人間の知恵に従うのではない。パウロは、コリントの信徒へ手
紙二1章12節で、「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、
神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところ
で、わたしの誇りです」と言っています。「世の中で」、「あなたがたに対して」とあります。良心に従っ
て生きることは神の前に立つことであり、聖書のみことばにとらえられて生きることであるが、同時にこの
世に対して深く関わって行くのであります。
・この信仰者の道には正解はありありません。それぞれがその都度その都度、今ここで神の前に生きるとは
どういうことなのかと問い、聖書に聞きつつ、祈りつつ、自分の道を生きる以外にありません。その信仰者
の道を山登りに譬えれば、山登りは隣人の助けがあったとしても、自分で登らなければならないのです。他
の人が代わって登ってくれるわけではありません。パウロ自身このように語っています。
・「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何と
かして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えれられているからです。兄弟たち、私
自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向
けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るたまに、目標を目指してひたす
ら走ることです」(フィリピ3:12-14)。
・それぞれの課題は異なっていても、この道を今ここでという具体的なそれぞれの場で共に生きていく者で
ありたいと願います。