なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(85)

         使徒言行録による説教(85)使徒言行録23:23-35、

・先日ある方が亡くなって、その葬儀に立ち会いましたが、その時改めて私たちのこの地上での人生が、神から

始まり神に帰る旅の途上に思えてなりませんでした。カトリックでは人間の死を帰天、天に帰ると言い表します。

天に帰るとは、神のところに帰るということです。私たちの命は神の賜物ですから、私たち人間は、神によって

命与えられて、この世に誕生します。ですから、私たちは、神からきて神に帰る、そのようなこの世の人生を過

ごしているのだということが言えるのではないでしょうか。

ヨブ記の「わたしは裸で母の胎を出た。/裸でかしこに帰ろう。/主が与え、主は奪う。主の御名はたたえら

れよ。」(1:21)という言葉を想い起します。

・では、神からきて神に帰る、そのようなこの地上での人生を、私たちはどのようの過ごしていくのでしょうか。

使徒言行録のパウロの記事を読んでいますと、パウロの生き様が、そのことを私たちに示しているように思えて

なりません。先ほど読んでいただいた使徒言行録23章23節から35節までの記事は、パウロエルサレムからロー

マ総督のいるカイサリアまで、パウロを殺害しようとするユダヤ人の陰謀から逃れるために、ローマの兵隊によ

って護送されるところです。使徒言行録の著者ルカは、このエルサレムからカイザリアへのパウロの護送によっ

て、パウロを殺害しようとしているユダヤ人から逃げたというのではなく、パウロがローマに向かって一歩前進

したということを描いているのであります。

ユダヤの最高法院でパウロが取り調べを受けた時に、パウロの巧みな弁明によって最高法院のファリサイ派

サドカイ派の議員同士の論争が激しくなって、パウロが引き裂かれてしまうのではないかと心配したローマの千

人隊長が、兵士に命じてパウロを議員たちの中から力づくで助け出し、兵営に連れ帰させました。その夜、パウ

ロは自分のそばに立った主からこのように言われたというのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを

力強く証したように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)と。

・ここに「ローマでも証しをしなければならない」と言われていますが、この「しなければならない」という言

葉は、デイという言葉で神の必然を現わしています。神の定めによって、パウロはローマでも証しをするように

定められている、なっているというのです。そのように神によって計画されているパウロの将来に向かって、エ

ルサレムからカイザリアへローマ兵によって護送されることによって、パウロは前進したというのです。

・そういう意味で、今日の聖書の箇所には、パウロが神の計画によって彼の歩みを一歩前進したことが記されて

いるのであります。そのようなエルサレムからカイサリアまでのパウロの護送がどのように行われたのかを、今

日の聖書の箇所から見ておきたいと思います。

ユダヤ人による暗殺計画をパウロの甥の密告によって知った、エルサレムでローマ兵を統率していた千人隊長

クラウディウス・リシアは、すぐにパウロをカイサリアに駐留している総督フェリクスのもとに送って、フェリ

クスの裁きに委ねることにしました。千人隊長リシアは、パウロが生まれながらにローマの市民権を持っている

ことを知ってから(22:29)、パウロにかかわることを恐れていました。ローマ市民権を持つ人は、ローマ法に

よって保護されていましたので、みだりに手を出すと、逆に訴えられて自分が裁かれてしまう危険があったから

です。さらに、エルサレムの治安を守る責任があった千人隊長には、ローマ市民権を持つ者の身柄を保護するこ

ともその職務の一端でありました。パウロの身に何か不測の事態が起これば、その責任は千人隊長が負わなけれ

ばなりませんでした。ですから、千人隊長リシアがパウロを速やかに総督フェリクスのもとに送るという判断を

したのは、もっともなことでした。

パウロの甥の密告を受けてユダヤ人によるパウロ殺害計画を知った千人隊長リシアは、百人隊長二人を呼んで、

<「今夜9時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。ま

た、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ>(23,24節)ました。パウ

ロは囚人でしたが、ローマ市民権をもっていましたので、馬に乗せられて鄭重に運ばれました。一人の囚人パウ

ロを運ぶために、エルサレムの治安を守るためにいたローマの守備隊が、千人隊長のもとに1000人の兵だったと

しますと、その約半数の兵士をパウロの護送にためにつけたということになります。このことは千人隊長がいか

パウロの身の安全に神経を使っていたかを物語っています。

・23章26節から30節には、千人隊長リシアが総督フェルクスに書いた手紙の内容が記されています。この手紙に

は、「この者がユダヤ人に捕えられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。

ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです」(27節)と記されていますが、これは少し事実と

は違います。パウロが殺されそうになっていたところを、千人隊長とその部下の兵たちが保護したのは事実です。

しかし、それはパウロローマ市民権を持つ者であることがわかったから救い出したのではなく、犯罪の容疑

者として捕えて取り調べするためでした。しかも千人隊長はパウロがローマの市民であることを知らずに鎖で

縛り、鞭で打ち拷問して自白させようとしたところ、パウロから「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にか

けずに鞭で打ってもよいのですか」(22:25)と言われて、あわてて鞭打ちをやめたのでした。ですから、パウロ

ローマ帝国の市民権を持つ者であることを知って、民衆の暴力から救い出したかのように書いているのは、

事実とは違いますが、自分の失策を隠して、あたかも自分が手柄を立てたかのように報告しているのです。

・しかし、千人隊長の判断は適切に記されています。「ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法

に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました」(29節)と。千人隊長リシア

は、ユダヤ人の最高法院がパウロを尋問した際に、パウロの有罪を証明できないばかりか、最高法院自体の意

見が分裂して収拾がつかなくなったことを見ていました。ですから、パウロを告発する理由は「ユダヤ人の律

法」すなわちユダヤ人の宗教の教義にかかわる問題にすぎないと判断したのです。そして千人隊長リシアは、

「告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました」(30節)と言って、訴

えを裁く立場にある総督フェリクスに最終的な判断をゆだねているのです。

・千人隊長シリアが、パウロが訴えられたのはユダヤ人の律法に関する問題であって、ローマにとっては死刑

や投獄に相当する理由はないという判断を下したことは、パウロにとっては有利に働いたに違いありません。

ローマ側としては、パウロを取り調べなければなりませんが、同時にローマ市民権を持つ者としてパウロを保

護する必要がありました。そのためにパウロエルサレムからカイザリアまで護送されたのです。

パウロは夜の内にエルサレムからアンティパトリスまで連れて行かれました。エルサレムからアンティパト

リスまでは70キロ強あると言われています。エルサレムからカイサリアまでは約100キロです。翌日そこで歩兵

パウロの護送を騎兵に任せて、エルサレムの兵営に戻りました(32節)。アンティパトリスまでくれば、ユ

ダヤ人の襲撃の可能性がほぼなくなったという判断でしょう。

・騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡しました(33節)。<総督は手紙

を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキア州の出身だと分かると、「お前を告発する者

たちが到着してから、尋問をすることにする」と言って、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた>

(34,35節)とあります。フェリクスがパウロにどの州の出身であるかを尋ねたのは、当時容疑者を出身地に送

り返してそこで裁判を受けさせるという方法もあったからだと言われています。パウロからキリキア州と聞いて、

そこに送り返すのは適切ではないと判断して、フェリクスは自分が裁くことにしたのでしょう。

パウロのカイサリア行きは、囚人として護送されてのカイサリア行きでした。自分の主体的な行動によるカイ

サリア行きではありません。ローマ兵に護送されて運ばれたのです。けれども、「エルサレムでわたしのことを

力強く証したように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)という、主イエスが幻の中でパウロ

語った、パウロにとって神の必然の道への一歩前進であることに違いありません。

・このパウロの場合のように、ローマ兵というパウロにとっては、場合によってはローマ帝国の権力を楯に弾圧

されるかも知れない、自分の仲間とも味方とも言えない他者によって、パウロのローマ行きが一歩前進するとい

うことが起こり得るということを、私たちは見損なってはならないと思うのです。その点では、どんな形でその

人に神が備えられた道に導かれるかということは、私たちには分からない場合が多いのではないでしょうか。

パウロにとっては、ローマ行きが神の必然、神がパウロのために備えた道です。福音の宣教者として立てられ

パウロは、地の果てまでイエスの福音を宣べ伝えることを、信仰によって自分に備えられた道として受け止め

ていたに違いありません。その点では、私たちにも神の必然であるイエスの招きへの応答があるのではないでし

ょうか。その応答が神に導かれた私たちの道であるとするならば、その道を、どのようにわたしたちを導いてく

れるのかは分かりませんが、主の導きに信頼して一歩一歩前進していくことではないでしょうか。「時が良くて

も悪くても御言葉を宣べ伝えなさい」と言われていますが、この言葉は「時が良くても悪くても、イエスの歩み

に従って歩み続けなさい」という、私たち一人一人への促しとして受け取ることができるでしょう。私たちが、

主を信頼して神の備えられた道を歩み続けるとするならば、どのような状況においても、私たちの為すべきこと

を為しつつ、その時を生きることが許されるのではないでしょうか。

・神の不思議な導きを信じて。