なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(54)

      使徒言行録による説教(54)使徒言行録15:12-21 

・前回触れましたように、使徒言行録15章は、最初の教会会議と言ってもよいエルサレム使徒会議のことが、使徒言行録の著者ルカによって描かれえいるところです。前回は15章1節から11節までを読みました。非ユダヤ人の信徒が中心のアンティオキア教会から、パウロバルナバらは派遣されてエルサレム教会にやって来ました。エルサレム教会の代表者たちと話し合うためです。パウロバルナバらは、ユダヤ人が大切にして来た「割礼や律法」を守ることは、非ユダヤ人には同じようにさせる必要はないと考えていました。ユダヤ人とは違う文化の中で生活してきた非ユダヤ人にユダヤ人と同じことをさせるのは、一つの暴力です。かつて日本の天皇ファシズム国家が朝鮮や台湾の人々に神社参拝を強要したり、日本名を名乗らせたり、日本語を話させたりしたのと、非ユダヤ人にユダヤ教の割礼と律法を守らせることは、本質的には変わりありません。

・しかし、まだ最初期の教会は、ユダヤ教の枠組みの中の一分派のようなところがありましたので、ユダヤ教キリスト教との違いをはっきりとは受け止めていませんでした。特にエルサレム教会の人たちにはその傾向が大いにありました。一方パウロバルナバらは、非ユダヤ人が中心のヘレニズム社会の都市にあるユダヤ教の会堂を拠点にイエスの福音を宣べ伝えていきましたので、彼らの福音伝達によって信じる人々は非ユダヤ人が多かったと思われます。

・それでもエルサレム教会の中には、割礼と律法を守ることが、イエスの福音と共に救われるためには必要不可欠であると、考える人々がいました。イエスユダヤ人の男性でしたから、割礼を受けていましたし、ユダヤ人として律法も大切にしていたに違いありません。パウロバルナバらは、エルサレム教会に着くと、みんなの前で、自らの宣教活動の成果として、伝道旅行で立ち寄ったヘレニズムの多くの都市にイエスを信じる者の集まりである教会が誕生した様子を報告しました。すると、それを聞いていたエルサレム教会のユダヤ教ファリサイ派から信者になった数名が立ち上がって、<「異邦人(非ユダヤ人)にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った>(15:5)というのです。

・この事があった後に、この問題について協議するために集まったエルサレム使徒会議が始まりました(15:6)。そこで、まずペテロが立って、話しました。使徒言行録では、ペテロは自分自身でも既に非ユダヤ人であるローマの兵士のコルネリウスにも伝道していますので(10章)、非ユダヤ人の信徒が誕生していることを知っていました。ペテロは、ファリサイ派の数名の信徒の発言を否定するような内容のことを話しました。/世魯罐瀬篆佑眸鵐罐瀬篆佑睚け隔てしない。▲罐瀬篆佑箸靴董∪菫弔發錣燭靴燭舛睇蕕いれない軛(割礼と律法)を非ユダヤ人に負わせてはならない。主イエスのめぐみによって救われるのは、ユダヤ人も非ユダヤ人も同じである。このペテロの発言は、使徒言行録の著者ルカがペテロの口を通して発言させているもので、ペテロ自身の考え方というよりも、ルカの考え方ではないかと思われます。

・このペテロの演説を聞いて、「大勢の者が皆黙った」(15:12、田川訳)(新共同訳「すると全会衆は静かになり」)というのです。それだけ、ペテロの演説には説得力があったと、ルカは言いたいのでしょう。事実ペテロの語ったことには、普遍性があります。〔餌欧琉磴い砲茲辰董⊃世録祐屬鯤け隔てしない。▲罐瀬篆佑箸靴導篶蕕販法によって人間として解放されたのかと言えば、むしろそれによって縛られて不自由になっているのに、それを非ユダヤ人に負わせるとは何事か。主イエスの恵みによって救われるのは、民族の違いに関係ない。誰でも信じる人は主イエスの恵みによる解放を生きることができる。イエスの福音には、このような普遍性、どこの民族、どこの国に住んでいる人にも自由と解放を与えるメッセージがあるというのです。

エルサレム使徒会議は、このペテロの演説で一件落着ということにはなりませんでした。ただ「大勢の者が皆黙った」ということを、ルカはここに書き込むことによって、このペテロの発言の普遍性に、この時皆が沈黙せざるを得なかったことを書き遺したのかも知れません。その後、バルナバパウロは、自分たちの活動を報告するのですが、ルカはその報告を、神を主体にして描いています。人々は、「バルナバパウロが、自分たちを通して神が異邦人(非ユダヤ人)の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いた」(15:12)と。

・この神がバルナバパウロを通して働くということは、聖書の基本的な信仰理解です。
神が直接私たちの中で働くということは、自然現象の中にはあるのかもしれませんが、人間の歴史には、少なくとも聖書ではないように思います。旧約では、王、預言者、祭司をはじめ、神が選んだイスラエルの民を通して、それだけではなく、諸外国の王や人々を通して神は働くのです。新約では、イエスを通して、そしてイエスを信じる人々を通して、更には、教会の外の人を通して、神は歴史に働く神なのです。

・神は私たち人間を人格として扱います。決して自分の意思に強制的に従わせる機械仕掛けの人形のようには私たちをお造りになりませんでした。吉本隆明は、「人を動かすのは自由な意思の力だけ。それ以外の名目で人を従わせるのは愚かなこと」だと言っていますが、神もそのようにお考えなのではないかと思います。ですから、神はご自分の御心をイエスさまによって極みまでお示めしになり、その神の御心を聖霊によって私たちに伝えて、それにどう応えるかは私たちの自由意思に任せているのではないでしょうか。そのようにして、神は私たち人間を通して、神の御業をこの世に現わそうとしておられるのだと思います。

・人々は、「バルナバパウロが、自分たちを通して神が異邦人(非ユダヤ人)の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いた」(15:12)というのは、まさに神がバルナバパウロを通して、人々の中でその御業をお示しになったということではないでしょうか。イエスによって神を信じる私たちは、私たち自身によって見えない神がお働きになっていることに、自覚的でありたいと思います。実際には、私たちの不信仰によって、神の働きを阻害していることが多いのではないかと思います。

・ボンフェッファーは、ある年のイースター(復活節)を前にして、このように書いています。「もし聖書がその人を捕らえるのでなければ、誰が自分ひとりで福音の中に報告されているこの不可能な事柄を信じることができるでしょうか。また誰が信じようとするでしょうか。ここでたいせつなのは、神みずからが保証する真理としての言葉です。復活―これはもともと考え出された思いつきでは決してありません。それは永遠の真理です。私は、聖書が考えているように、ただ次のように考えるだけです。すなわち、復活を本当の死からの(眠りからではなく)本当の生へのよみがえりとして、つまり神から遠く離れていること、神なしであることから、神にあってキリストと共に生きる新しい生へのよみがえりとして考えるだけです。神は語りました―そして私たちはそれを聖書から知るのです。<見よ、私はすべてのものを新たにする>。神はこのことをイースターに本当に行なったのです。
 それゆえ、<私たちは聖書の言葉を信頼するか否か>、あるいは<私たちが生きる時も死ぬ時も、別の言葉によってではなく、聖書の言葉によって自分を支えようとするかどうか>という決断だけが残っています。そして、<聖書の言葉を信頼する>という決断を下す時に、初めて私たちは喜ばしく、また安らかになることができるのだと思います」。

・さて、バルナバパウロが話し終えると、ヤコブ(イエスの弟でエルサレム教会の指導者)が答えて、このように言ったというのです。「非ユダヤ人(異邦人)の中から御自分の名を信じる民を選びだそうとなさった次第については、シメオン(ペテロ)が話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。・・・」(14,15節)と。ヤコブは非ユダヤ人に福音が宣べ伝えられ、非ユダヤ人の教会(神の名を信じる民)が誕生したこと知っており、またそのことが神のみ旨によることを認めています。「それで、わたしは判断します」(19節)と言って、ヤコブの判断を語ったというのです。この「判断します」という言葉は、裁判用語として、「判決を下す」という意味にも用いられる言葉だと言われています。ですから、ここでヤコブエルサレム使徒会議で協議している問題に対して、裁判官が判定を下すような感じで、「わたしは判断します」と言っているのかもしれません。

・そのことは、エルサレム教会でのヤコブの立場が、後の教会の主教に近いものをもっていたということを意味します。このようなヤコブ像は、一世紀末の使徒言行録の著者ルカが、一世紀末の教会がすでに制度的にも主教に近い一人の人物に決定権があるような形をとっていたので、それをヤコブに当てはめたのか。それとも紀元49年ごろのエルサレム教会の中に既にそのような面があったのか。私は後者のように思いますが、何れにしろ、このヤコブの判断によってエルサレム使徒会議の結論になったのでしょう。

・そのヤコブの判断とは、「神に立ち帰った異邦人(非ユダヤ人)を悩ませてはなりません」(19節)と言っていますが、「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」(20節)と付け加えています。これが非ユダヤ人信徒に対する勧告なのか、それとも非ユダヤ人信徒には割礼や律法遵守を押し付けるものではなく、非ユダヤ人信徒のいる地域に建てられているユダヤ教会堂を配慮してのものなのかは、よく分かりません。ヤコブのこの判断によって、少なくともエルサレム教会のメンバーであったファリサイ派から信者になった人たちは、割礼は条件に入っていませんので、しぶしぶでしょうが、納得したものと思われます。

・しかし、パウロは、エルサレム使徒会議の決定事項について、別の理解を示しています。ガラテヤの信徒への手紙2章1―10節に記されていますが、そこでパウロは、貧しい人への配慮以外、他には何の条件もなく割礼と律法から自由な福音をパウロらが非ユダヤ人に語ることが認められたように語っています。そしてペテロらはユダヤ人に、パウロらは非ユダヤ人にというように、それぞれの働きの分割を確認したというのです。そのことしか語られていません。ヤコブの出した非ユダヤ人も避けなければならない行為については、何も言われていません。

・何だか外交文書がそれぞれの国に都合よく解釈されているのに似ています。イエスの福音は一つなのですが、福音を信じる人には様々な違いがあるわけですから、このような問題が起こるのは必然です。その際、私たちが考えなければならないことは、福音に照らして判断していくということなのではないでしょうか。明らかに福音に反する伝統、日本の天皇制のようなものは否定しなければなりません。福音に反しない伝統であっても、それを絶対化してはなりません。違いを認め合い、対話を通してよりよい関係を築く伝統からも自由な者として、私たちは、イエス・キリストの福音にあって一つにされているのではないでしょうか。