なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(354)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(354)復刻版を掲載します。2006年7月のものです。下記通信に

内容は、キリスト教主義の女学校に招かれた時に、高校生から問われた質問への私なりの回答で

す。


     黙想と祈りの夕べ通信(354[-41]2006・7.9発行)復刻版

 高校生からの質問―3「・・・自殺やニートなどは先進国に多いと言いますが、なぜ人は物に富

んでいる時に自分の人生を無駄にし、貧しい時は必死に生きようとする人が多いのでしょうか」。


 日本の社会もこのところ自殺者が毎年3万人を下らないと言われています。ニートの人も多いそ

うですね。その原因の一つに「物に富んでいる」ということがあるでしょうが、ただ「物に富んで

いる」だけではないようにも思います。富んだ社会でも生き生きと生活している人が多い社会もあ

るでしょうし、ニートになる必要のない社会もあるかも知れません。私は1941年生まれで、日本の

敗戦後の食糧難の時代を多少経験した者として、今でも食べることには貪欲なところがあります。

食料の無駄はよくありませんが、物に富んでいる社会は貧しい時代を経験した者にはまんざら悪い

とは思えません。

 問題は別のところにあるのではないでしょうか。たとえば金子みすずの童謡の一節のように、

「みんなちがってみんないい」という、それぞれの差異を認め合って、しかも誰一人尊ばれない人

はいない社会であれば、少なくともニートになる人はいないのではないでしょうか。いても大変わ

ずかの人でしょう。或いは、人々の中に分かち合い、支え合い、助け合う優しい思いがいっぱいあ

れば、自殺する人もニートの人もでないかも知れません。確かに貧しい時は必死に人は助け合って

生きます。1995年に起こった阪神・淡路大震災の直後から「復興?」までの間、ボランティアの人

たちも沢山来てくれたし、被災者同士が助け合って、物も分かち合い、みんなが忘れていてしまっ

ていた人と人との絆の豊かさを経験したと言われています。でも「復興?」するにつれて、また元

の状態に戻っていったと言います。均一社会、競争社会の厳しさの中で、自殺者やニートの人が生

まれるのではないでしょうか。お互いに差異を認められ、分かち合い助け合う社会であれば、そん

なに自殺者やニートの人も出ないのではないでしょうか。社会をよく知ることによって、どうした

らよい良い社会を築けるのか。是非よく考えてみてください。それも一つの生きる意味になりま

す。           (ブログ6月3日)


 高校生からの質問―4、「自尊感情はどのように育つのでしょうか。最近、私は自分のことがど

うでもよくなっていて、何をするのも面倒に感じられます。自分の中に自尊感情が芽生えないと、

これから自分がどうなるのか、さっぱり分からなくて、ちょうど、これが、今の私の最大の悩み事

でもあります」。


 私は主題講演の中で、1995年に起こった大坂道頓堀堀川「ホームレス」殺人事件の被告青年ゼロ

について、北村年子さんの本に基づいてお話ししました。その時青年ゼロには自尊感情の欠如があ

るということもお話ししましたので、この質問はそのことと関連しています。私は以前北村年子さ

んの講演を聞いて、手塚千砂子さんの主宰する「自己尊重プラクティス協会」を知りました。自己

尊重感をもつための具体的な手立てとしては、手塚千砂子さんの理論と実践は大変役に立つと思っ

ています。私はキリスト教の牧師ですから、私なりに言えることは、こういうことです。それは、

悩む自分を捨てて、「無為」の人になるということです。悩む人は知らず知らずのうちに自分が中

心になって、ああだ、こうだと考えてしまっているのです。ですから、意識が過剰になって、いつ

の間にか体が委縮してしまっています。体が委縮して血液の循環が悪くなったりしますと、生命活

動が退化してしまいます。それが高じますと、石のようになってしまいます。石は風をその体内に

通すことはできません。さわやかな風が吹いていても、無関係です。

 もしかしたら、あなたは自分が自分の人生の主人公だと考えていて、どうしたらよいのか分から

ずに悩んでいるのではありませんか? 自然の中に自分を置いて、ちょっと目を閉じて、深呼吸を

してみてください。そして考えることを止めて、感覚を研ぎ澄ませてみましょう。風が吹いていま

すか。鳥が鳴いていますか。空には雲が浮かんでいませんか。遠くの山の稜線はどんな形ですか。

自然と一体の自分を感じましょう。自分は、自分は、という自己へのこだわりが溶けていきません

か。私たち人間は、自分が生きているというよりも、何かに生かされて今を生きているのではない

でしょうか。ある意味で徹底して私たちの生は受け身なのです。受け身であるということは、私た

ちを生かしてくださる方(「神」)がいらっしゃるということでしょうか。無心に遊ぶ幼い子ども

たちは、生かされて生きる喜びを無意識に体全体で表しているように思われます。そのような幼子

に見習って、生かされてある自分を発見できたら、私たちは自ずから生きていることに感謝と生き

る喜びを感じることができるのではないでしょうか。  (ブログ6月5日)


 以上私のヤフー・ブログ「なんちゃって牧師の日記」から。