なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(353)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(353)復刻版を掲載します。2006年7月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(353[-40]2006・7.2発行)復刻版


 このところホームや病院にいらっしゃる何人かのお年寄りの方々をお見舞いして感じたことをお話しし

ます。特に病院にいらっしゃる方は、ベットが唯一ご自分の居場所になっています。老健や特養の場合

は、4人部屋にしても各人に多少居室空間が作られていて、写真や飾り物を置く台が備えられている所が

殆どです。しかし、病院の場合はベットの他には衣類やオシメを入れる台が一つあるだけです。一時的に

入院して、手術や治療が終われば、家に帰ることができる患者さんとは違い、お年寄りの場合は、そこが

最後の看取りの場所になることが多いでしょう。それにしては、何とも寂しい感じがします。最近読んだ

吉本隆明の『老いの超え方』の中で、吉本は自分が経験した病院生活から、現在の日本の病院は患者一人

一人が中心に考えられてできているのではなく、経営者の理事長が中心で医者は理事長の意志に従い、看

護師は医者の意志に従う体制だから、患者にとってはその体制を受け入れ従うことが要求され、患者本人

の思いは無視されることが多いと言うのです。本来ならばそれが逆になって、患者本人の思いや立場が中

心にならなければ、よい病院とは言えないと。本当にそうだと思います。このことは日本の社会に生きる

私たちにとっては、すべてのことにおいて言えるのではないでしょうか。個々人の一人一人が中心に考え

られる社会が本当に望ましい社会だと思いますが、日本の社会はまだまだだと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。小泉首相靖国神社参拝を今年もするだ

ろう。この小泉首相靖国神参拝に対する反対の論調の中で、アジアの国々が反対する靖国には行くなと

いう意見がある。小泉首相はそのことを外国からの干渉があるから、靖国に行かないというのはおかしい

と反論している。靖国の問題は、国のために命をささげた人を美化するところにある。それは再び国のた

めに戦争に行く人をつくるためだ。戦争で死んだ犠牲者に対するお詫びならよいのか。外国が反対するか

らという論理は気を付けないといけない。反対しなければ首相は靖国神社参拝が問題ないということにな

るかもしれないから。首相の靖国神社参拝の問題では、別に神道は宗教だから、靖国神社に一国の首相が

行くのはおかしいという論はどうかと思う。クリスチャンの首相が教会の日曜礼拝に出席するのはけしか

らんということになるからだ。また、A級戦犯が合祀されているからというのもどうか。

 続いて、また別の人の発言がありました。先週の土曜日に教区総会があった。性差別問題特別委員会の

一委員として、会場でビラ配りがあるので、このところ教区総会を傍聴している。教区総会では議事が前

向きに議論されることがなくて残念である。神奈川は原子力空母母港化を横須賀市長が認めたことを含め

て、今の状況を考えると、神奈川にある教会としてもっとやることがあるのではと思わされた。教団総会

議員の選挙にしても、予備選で当選した人の所信表明を聞いて、それぞれが選挙するというわけでもな

く、すでに選挙前から組織票がまとまっていて、形だけの選挙の感が強い。靖国問題、部落差別問題に長

い間真剣に取り組んでいる人がいるのに、そういう問題の共有が全く感じられない教区総会で、傍聴して

いても疲れが残るだけだ。国会前の座り込みに参加していて、三里塚闘争を今も持続して担っている方が

いらっしゃることを聞いた。状況が変わっても運動を持続して担うことの難しさを思う。教区や教団はそ

ういう働きをバックアップするところではないかと思うが、とてもそうとは思えない現実を見てがっかり

して、教区総会に出て返って元気を失ってしまった。自分自身がどこまでできるかが問われていることを

思う。平和を造り出す者として、何をするかを祈り求めながら行動していきたい。