なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「改訂宣教基礎理論第二次草案」学習会発題

 昨日神奈川教区常置委員会主催の「改訂宣教基礎理論第二次草案」学習会での発題です。この草案は、

現在教団常議員会を中心に今後の教団の宣教基礎理論とするために、その作業が行われているものです。

教団常議員会から各教区に1月31日までという期限付きで意見聴取がきているということで、神奈川教

区常置委員会では、今回の学習会を設定しました。その発題者の一人に(発題者は二人、もう一人は逗子

教会の小宮山剛牧師です)私が立てられました。学習会は通常の常置委員会前の1時間でしたので、以下

のような私の発題となりました。

 参考にしていただければ幸いです。


      「改訂宣教基礎理論」(第二次草案)への私的意見       北村慈郎
                    
                            2014年2月4日(火)教区学習会発題

 はじめに

 短い時間ですので、改訂宣教基礎理論第二次草案(以下第二次草案)全般について触れることは出来ま

せので、大事な点に絞って私の意見を述べます。

 1)前文の事実誤認について、

<1963年の「宣教基礎理論」が作成されてからすでに約半世紀を経ており、その神学的妥当性において少

なからず疑義があるためです。ことに、教団は1969年のいわゆる「万博問題」以来、福音理解において

も、宣教理解においても、混乱を経験し、その中で教勢も低下し続けています。この混乱の原因の一端

は、先の「宣教基本方策」および「宣教基礎理論」において、「神との和解」という垂直的次元への言及

が欠落したからだと考えられます。>(第二次草案2頁「宣教基礎理論の改定にあたって」)。

 この改訂理由には明らかな誤りがある。この改訂理由の「教勢の低下」については、戒能信生が教団ジ

ャーナル「風」43の「『改訂宣教基礎理論』への問い」の中で、データーを挙げて、「『宣教基礎理

論』によって教勢が停滞しているなどという見方は誤りであるだけでなく、ためにするデマゴギー以外の

何でもないことが判るだろう」と否定している。また、改訂草案の「『宣教基本方策』および『宣教基礎

理論』において、『神との和解』という垂直的次元への言及が欠落したからだと考えられます。」につい

ても憶測での物言いとしか思えない。確かに「宣教基本方策」には、「1、基礎 われわれは聖書の真理

にきびしく立ちながら、激変する時代に立ち向かうために、新しい宣教の基礎理論の確立をつとめる。」

とあるだけである(『新しい教会づくり~教団「宣教基礎理論」の解説~』日本基督教団伝道委員会、日

本基督教団宣教研究所共著、1964年、日本基督教団出版局178頁)。しかし、「宣教基礎理論」には、

教会の体質改善 1、体質改善論の前提のbで以下のように記されている。「教会が神からあたえられる

宣教のエネルギーは、教会におけるこの信徒相互の人間関係が、質的に正当な人格的関係にまで深められ

た時に、最も力を発揮します。罪深いわたしたちが、神に対する敵意を捨て、キリストの十字架において

示された神の愛に信頼を寄せる時、神は罪人であるわたしたちを赦して受けいれてくださいます。そのゆ

えに、わたしたちもゆるされた兄弟姉妹として、互いに受けいれあうことがゆるされます。この交わりを

とおして、神はわたしたちを宣教の使命に立ち向かわせるのであります」(同上9頁)。ここには、明確

に改訂草案が言うところの「『神との和解』という垂直的次元への言及」がなされており、その言及が欠

落しているわけではない(下線筆者)。この点についても上記戒能氏の文章の中で詳しく指摘されてい

る。

 2)「宣教という神の業」の理解について、

 第二次草案では、神の宣教の働きは教会を通して世界にという、所謂神→教会→世界という構造になっ

ている。宣教の働きの主体は神であるという点では、「ミッシオ・デイ」の神学(神→世界→教会)によ

りながら、伝統的な伝道論に終始し、パラダイム転換がなく、以下にあるように、「世との連帯関係にあ

る」教会という考え方は全くない。
 
 <「ミッシオ・デイ」の神学の最大の貢献は、真の宣教の主体は、神、三位一体の神であり、その神は

派遣する神であるという点を明確に提示した点である。すなわち、三位一体の神はご自分の被造物へ、あ

るいは自らが創造された「この世」へと出ていかれる方である。このような創造主なる神は、ご自分が生

み出した結果を様々な形で関係を結ばれる神でもある。換言すれば、神はその本質から言って関係の神で

ある。それゆえ、神はそもそも初めから派遣する神であり、み言葉を通して創造の業を展開され、派遣す

る神となられた。そして、神の御子の受肉によって、自ら派遣する神となられ、その後、ご自分の霊を遣

わされ、この霊によって、すべての被造物を完成へと導かれる。それゆえ、神ご自身の派遣がなければ、

誰も福音を語ることはできず、また、神の計画と発意、さらには選びと派遣がなければ、宣教の必然性も

可能性も生まれてこない。しかし、神は御子を派遣し、救済の業(贖罪)をなし、それと共に聖霊を派遣

し、恵みの選びによってキリストのものとされた人々の群れをご自分との和解の中に組み込み、先に和解

に与った者たちを宣教の業に派遣される神でもある。そのとき、派遣された教会とキリス者とは『伝道の

人間的主体』となるのである。したがって、第一義的な伝道の働きは、教会が自発的に主体となって始め

る業ではなく、神の派遣、すなわち「神の宣教」をもってはじめられる業に他ならず、神は教会に先立っ

て、すでにこの世に働きかけ、この世における「神の伝道(theMission of God)」に、神に選ばれ、神

からの派遣に応じて参加する働きが教会の伝道(missions)であるとしている。この点を図式化すると、

従来までの神→教会→世界よりも、神→世界→教会という図式が相応しいと考える。(中略)教会は、世

から選ばれ、世に向かって、世のために派遣される神の民である。それゆえ、教会は世の上に立つ存在で

はなく、キリストに属する民であるが、世の一部として、世にあって生きる群れである。そこで教会と世

界とは連帯の関係において、共に神の祝福の下に生きる存在である」(松田和憲『宣教の神学~パラダイ

ム転換を目指して~』p.370~p.372)。

 3)日本基督教団信仰告白(および教憲教規)について

 第二次草案では、教団の信仰告白について、<宣教内容には、「日本基督教団信仰告白」との一致が求

められています」(-1- p.6)とか、<・・・(宣教協力において)その唯一の確かな基礎は、日

本基督教団信仰告白と教憲・教規です>(-4₋、p.14)とか言われている。しかし、現在の日本基督

教団信仰告白は戦時下の教団の教義の大要の焼き直しであって(アレテイア1995年11月号、土肥昭夫「日

本基督教団信仰告白の成立について」参照)、戦後会派問題が起きた時に、旧日基の一部が教団から離脱

したときに、旧日基の長老主義教会が日本基督教団に留まるために、教団内事情のために作られたもの

で、本来教会の信仰告白が持つその時代や社会にあっての教会の主体的告白としての信仰告白ではない。

その意味で、日本基督教団信仰告白では戦前からの天皇制の枠の中での教会の歩みを明確に断ち切ること

はできない。本来合同のとらえなおしとの関連で日本基督教団信仰告白の再検討がなされなければならな

いものである。

 4)政治的・社会的な証し

 第二次草案は、教会とキリスト者の政治的・社会的な証し(証言)については具体的には何も言ってい

ない。政治的な判断は困難なので、政治的な運動や平和運動については、ただ祈るのみとしている(-

3-ぁ

 5)信徒論・教職論について

 宗教改革的真理としての「万人祭祀論」に立つならば、教職もまた信徒の一人であり、信徒も教職(祭

司)でありうる。社会が分業社会である限り、働き(機能として)としての専門職を必要とする。その限

りにおいて教会にとって教職は過渡的に必要である。しかし、教職の働きはいつでも信徒が取り戻すこと

ができるものであって、固定的に考えてはならない。例えば、聖書の真理性は、教職だけが発見できるも

のではなく、場合によっては、信徒が発見することもある。その時は制度的な信徒が教職であって、制度

的な教職が信徒なのである。万人祭祀性においては、制度的な教職と信徒とは、その立場は常に互換性が

あるものと考えられる。

 その意味で、第二次草案は身分制的な信徒論・教職論に立っている(特に第二次草案供檻押法

 6)教会と国家について

 第二次草案では、教会と国家の関係はルターの二王国説とほぼ同じである(-2- 法また、国家へ

の抵抗権については、戦時下の日本基督教団の中枢の姿勢と同じである。


戦時下教団において信仰告白をめぐって伝えられている一つの挿話は、当時の教団の信仰理解を象徴的に

示している。その挿話とは、<富田満教団統理と村田四郎教学局長が文部省に近藤壽治教化局長を訪れた

とき、近藤は「現人神」である天皇キリスト教の神の被造者として神やキリストの下に置くことは不敬

である、キリストの復活信仰は幼稚で奇怪な迷信であるとし、それらの修正を求めた。二人は、日本国民

として日本を愛し、非常時体制に協力してきたが、最後の線から退くことはできない、そこまでいわれる

ならば、私たちも最後の覚悟があると答えた。近藤も、ではこちらも考えておくから、そちらも研究して

くれといった。これは村田局長の談話として伝えられている(『東京教区史』1961年、90-92頁)。ただ

教団の公式記録は、富田が文部省との交渉経過を報告した(45・1・26、2・7、したがって彼らが45年5月

に文部省に行ったという談話の期日はおかしい。もっと前のことである。)とか、信仰問答発表の延引事

情を説明した(45・4・24-26)とあるのみである。この挿話が事実であれば、それは天皇制官僚のキリス

ト教介入の好個の事例となるが、教団当局も信仰問答稿について明確な処理をしないままに敗戦となり、

問題は消滅したようである>(土肥昭夫『天皇とキリスト~近代天皇制とキリスト教の教会史的考察』47

3頁)。

 この村田局長の談話「私たちも最後の覚悟はある」とは、教団は国家の戦争遂行には協力するが、信仰

問答のような教義への干渉には殉教を覚悟で臨むということなのであろう。このスタンスを二次草案もほ

ぼ同じように踏襲していると思われる。二次草案言覿気量槁犬涼罎如峩飢颪塙餡箸箸隆悗錣蝓廚某┐譟

以下の様に記されているところである。-2-い法禧飢颪教会として世界平和や国家・社会に関わる関

わり方は、基本的には、神の言葉を宣べ伝えるという関わり方に限定されています>(第二次草案17

頁)。また-3-い砲蓮禮餡箸陵?的な力がサタンの力に敗れ、自らを神格化することによって御心に

いちじるしく背き、悪魔化する場合があると聖書は教えています。それは、「神のもの」が奪われたとき

です。すなわち、福音が福音であることができなくなり、教会が教会であることができなくなり、信仰告

白が信仰告白であることができなくなるときです。具体的に言えば、礼拝が禁じられるとき(または偶像

崇拝が強いられたとき)、宣教がいちじるしく妨げられたとき、信仰箇条のいずれかまたは全部を否定す

るよう強要されたときなどです。そのとき、教会は、まさに与えられた神の言葉を宣べ伝えるという戦に

おいて、国家に抵抗するのです。教会は信仰告白のゆえに、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者

どもを恐れる」ことなく、「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れ」(マタイ10:28)つ

つ、神に栄光を帰すのです>(同17頁)。

 おわりに

 第二次草案では、戦責告白以前、特に教団成立、戦時下の教会に戻る。国家や資本制社会の枠組みの中

で、「対抗共同体」(石田学)としてではなく、その枠組みを補完するイデオロギーとしてのキリスト教

信仰の域を出ない。従って、第二次草案は、結果的に教勢拡大を目的とする護教的な教会の自己目的化を

推進する宣教基礎理論に過ぎない。しかも観念的、抽象的な理論であって、現場の教会の宣教基礎理論足

りえない。

 もし1963年版の宣教基礎理論の改訂をするならば、戦責告白以降の40年の教団の歴史を踏まえて、それ

に相応し改訂宣教基礎理論を教団は作るべきである。


 『沖縄に立つ合同教会をめざして』の「答申」沖縄にある望ましい将来教会の在り方/2008年(沖

縄にある将来教会の在り方を検討する特設委員会)」

 特に以下を参照されたい。

 第5項目「積極的に福音宣教する教会」〔上記2)に対応〕 

 第8項目「信徒論・教職論・会議制」〔上記3〕に対応〕
 
 第2項目「教会と国家」〔上記4〕に対応〕