なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(445)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(445)復刻版を掲載します。2008年4月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(445[-27]2008・4・6発行)復刻版


 1995年に阪神淡路大震災が1月に起こり、確かその年の3月だったと思いますが、地下鉄サリン事件

が起こりました。多分その少し後に酒鬼薔薇聖斗と名乗る中学生による神戸小学生殺害事件が起きました。

この二つの殺人事件に私は大変衝撃を受けました。最近起こりました二つの殺人事件にも、同じような衝撃

を私は受けました。一つは警察の張り込みを潜り抜けて、通りがかりの人を無差別に刺した人が、誰でもい

いから人を殺したかったと言ったという事件です。もう一つは岡山の駅でホームに落として人を殺した人で、

人を殺せば刑務所に入れるからと言ったという事件です。

 私は3月30日の日曜学校のお話でも申し上げましたが、上記の二つの殺人事件を犯した二人の心の中は

本当のところよく分かりませんが、何れにしろ与えられた自分の命の尊厳さへの気づきが希薄ではなかった

のかと思うのです。命の尊厳さと言いますと、少し抽象的になりますが、言葉を換えて言えば、他者から自

分が大切にされた経験と言ってもいいでしょう。自分の存在が人から認められたときに、自分が存在するこ

とが喜ばれていることを感じ、生きていることの尊さが実感できるのではないでしょうか。自分の生を完全

とは言えないまでも大方肯定することができないと、なかなか前向きに生きていくことができないと思うの

です。私は前にもどこかで書いたように思いますが、神学校を出て最初の教会に赴任して教職として働いた

時に、一人の青年と出会いました。それは数名の青年たちと聖書の学びをしていたときだったと思います。

話題は隣人愛についてでした。すると突然その青年が自分は自分をさえ愛することが出来ず、何時死んでも

いいと思っているので、隣人を愛することなんてとてもできない人間だ。そんな自分のような人間が隣人を

愛することなどとても考えられないと言ったのです。まだ神学校出たてだった私は、その青年の言葉になる

ほどと感心してしまいました。確かに自分を愛することが出来ない人が、どうして隣人を愛することができ

るでしょうか。

 以前寿の講演会に来てくれた北村年子さんは、大阪の道頓堀でホームレスの人を欄干から川に落として殺

してしまったゼロ君のことを話してくれました。彼女はこの事件を知ってゼロ君のことが気になり、ルポラ

イターとしてゼロ君と面談し、ゼロ君の裁判を傍聴して、何故ゼロ君がホームレスの人を道頓堀の欄干から

突き落としたのかという疑問の答を見出そうとしたのです。そうして彼女が出した答えは、ゼロ君の自尊感

情の極端な欠如がこの事件を起こしたということを発見するのです。そういう意味ではゼロ君も被害者の一

人ではないだろうかと、北村さんは問うているのです。小さい時から他者から愛されることなく、いじめら

れてきたゼロ君が少年になって、より弱いホームレスの人を川へ突き落とすといういじめをするという、こ

のいじめの連鎖をどう断ち切ることができるのか。北村年子さんはゼロ君が自尊感情を豊かに持つ人間にな

ることによってしか、このいじめの連鎖は断ち切れないと言うのです。

 私は今回の二つの殺人事件を起こした二人の青年の場合も、ゼロ君の問題と全くおなじではないだろうか

と思えるのです。彼らが自尊感情を豊かに持った青年として育っていれば、このような悲惨な事件は起きな

かったかもしれません。しかし、日本のような高度に発達した消費資本主義社会では、一人一人の人間の尊

厳が大切にされるということは社会でも学校でも余りありません。家族や友人関係において、かろうじて一

人一人の人間の尊厳が大切にされるかも知れませんが、実際には家族や友人関係も社会の価値観の影響を受

けて、自尊感情が豊かに育つ苗床としての機能を果たしているとは思えません。そう考えてきて、教会はど

うなのかと、問われていることに気づかされました。その人がその人らしく生きることを促し、一人一人を

かけがえのない存在として大切にするのは、まさしくイエスの福音によって立つ教会ではないだろうかと。

そのように思えば思うほど、今回の二人の青年の殺人事件に対して、教会は怠慢のそしりを受けなければな

らないと思うのです。新しい年度の歩みが始まりました。気を引き締めて、この世に仕える教会としての歩

みを私たちの教会も果たしていきたいと思います。  

       

        「謙虚にかつ自信をもって」        4月6日


 空の星を見つめ銀河に思いを馳せると、私たちがしたり、考えたりすることが全く無意味に思われるほど、

私たちは足りないものに思えて来ます。けれども私たちの魂の内側をのぞいて、私たちの内なるいのちの果

てしない銀河に思いを馳せると、私たちの言葉、行い、思いのすべてが非常に重要なものに見えてくるほど、

私たちは大きくまた意味深い存在となります。

 謙虚でありながらかつ自信をもち、ユーモラスにかつ真剣に、遊びながらもかつ責任をもって、私たちは

このどちらにでもいられるような方法を探し続けなければなりません。人間は非常に小さく、かつ偉大です。

私たちを霊的にずっと目覚めさせておくのは、この二つの間の緊張関係である。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)