なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(444)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(444)復刻版を掲載します。2008年3月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(444[-26]2008・3・30発行)復刻版


 「沖縄から基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」が6月に全国集会を岩国で開

くので、事務局の責任者として私は23日日曜日広島に一泊し、24日岩国教会のO牧師をたずねて打ち合わせを

してきました。電話やメールのやり取りでも済むかもしれませんが、私はO牧師を直接たずねて打ち合わせを

することにしました。それは2月に行われた岩国の市長選挙井原勝介さんが僅差で負けたのですが、その井

原勝介さんを支援して、全力を注いだO牧師がさぞ落胆しているだろうと思って、私は直接お会いして打ち合

わせをすることにしました。O牧師にお会いして、比較的元気でしたので安心しました。O牧師も選挙後しばら

くは落ち込んでしまったようですが、岩国の闘いは市長選でおわったわけではないので、これからも地道に

取り組んでいきたいと思い直して、元気を取り戻したとおっしゃっていました。是非O牧師を覚えてお祈りく

ださい。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。「潜水服は蝶の夢を見る」という映画を観て

来た。フランスが舞台で自伝に基づいて作られた映画である。全身麻痺し、残された左目だけ瞬きだけがで

きる人の話である。人の残されている目でアルハベットを順番に介助者が発音し瞬きで合図し読み取り、字

を繋ぎ、何十万回の瞬きを読み取って本にしたという。画面は彼の左目から映像カメラがとらえていくとい

う設定であった。自分の世話をされるのを片目で追っている。言葉が出ない彼は意思を伝えることが出来な

い。彼を取り囲む人々は彼の意思を確認することなく無視したように行動する場面がたびたび出てくる。テ

レビを見ているのに、医者が部屋を出る時に電源のスイッチを勝手に切る。お見舞いに来て声を掛けるが彼

の視点を無視し視界に入ってこない人。余り近づかれるのが嫌なに、その人を避けることが出来ない。初め

は死を願うがそれも出来ない。そのうち周りからの援助の手を受け入れ愛されていることが分かって生きよ

うとする。この映画のシーンが私の頭から離れない。他人の視点から自分がどう映っているのか?私は神さ

まがどのように見られているか。彼の眼のことを思い、今日一日そのことを思い巡らしていた。よかれと思

ってやっていることが、本当に相手に必要なことなのだろうか。自分から自然に出た行動が押し付けになっ

ていないか。そうでないことを祈りながら行動しているが、彼の眼の視線からいろいろ考えさせられ、映画

から教えられた。相手の視線を受けて、どう生きるかを考えさせられた。

 続けてもう一人の方の発言がありました。祈りと黙想の夕べは、いろんなものがギチギチと詰まっている

自分の心の中に少しでもスペースを作って神へ心を向けようとする(出来ないときも多々あったが)大切な

時であった。今日の聖書箇所(詩編118:22-25、マルコ16:1-8)には、人の思考・想像をはるかに超える

神の驚くべき業が語られていることに捉えられた。経験はともするとこれからを予測し不安を生み出す。慣

れ親しんだ紅葉坂を離れ、これからの自分を予測することから生まれる不安が、「あの墓石を一体だれが転

がしてくれるだろうか」と不安がった女性たちの思いに重なっているような気がする。しかし神は人の予測

や想像をはるかに超えた復活の出来事へと彼女たちを導いた。心のザワザワが和らぎ、励ましを得た夜であった。
           

        「涙を通って微笑みへ」         3月30日


 死とは、人生という地平線の上で徐々に小さくなっていき、最終的に見えなくなることです。港を離れ水

平線に向かって行くヨットを見ていると、だんだんに小さく見えなくなっていきます。しかし、遥か遠くの

むこう岸では、その同じヨットが新しい港に着くまで、だんだん大きくなってくるのをじっと見ていてくれ

る人がいることを信じなければなりません。死は喪失であり痛みです。埋葬から家に帰ると、私たちの心は

悲しみに沈んでいます。けれども私たちの愛する友を新しい家に迎え入れようと、心から喜んで待ちわびる

方がむこう岸に立っていることに思いを馳せる時、涙の中から微笑みがほころび出ることでしょう。

 
                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)