黙想と祈りの夕べ通信(443)復刻版を掲載します。2008年3月のものです。
下記に記されています神奈川教区で開催しました「戦責告白40周年記念集会報告集」は、先日出ました農村
伝道神学校の紀要に載っています私の「<現場から伝道を考える>宣教の現場である3つの教会での働きを通
して~課題・未受洗者配餐・展望~」の中で触れています。
このブログに、黙想と祈りの夕べ通信の復刻版を掲載しますと、今回もそうですが、その内容が現在の私の
営みと重なることがしばしばあります。不思議なものです。
黙想と祈りの夕べ通信(443[-25]2008・3・23発行)復刻版
2月23日の教区総会に「戦責告白」40周年を覚える神奈川教区集会(2007年11月17日開催)の報告集を教区
の諸教会、伝道所に2部ずつ配布しました。この集会の応答者になってくださった在日大韓基督教会の李仁夏先
生と日本ホーリネス教団神奈川教区の上中栄先生にも報告集を送りました。すると折り返し上中先生から30
部送ってもらいたいとの連絡をいただきました。ホーリネス教団の集まりで配りたいからとのことでした。す
ぐに送らせていただきました。数日後その集会で報告集を手にしたというクリスチャン新聞の根田祥一さんと
いう方から電話があり、クリスチャン新聞のイースター号に記事にすること、連絡先は私でいいかという問い
合わせがありました。お願いしたところ、さっそく記事になったクリスチャン新聞を送ってくれました。記事
の内容はよくまとまっており、このところ気分のよくないことが多かったので、うれしくなりました。私は少
なくとも聖書の使信を大切に生きていく者として大事にしなければならない一つのことに、事柄の真理性を明
らかにすることにあると思っています。「真理はあなたがたを自由にする」というヨハネ福音書の言葉は、本
当にそうだと思っています。思わぬ形で報告集を取り上げてくれました根田祥一さんに心から感謝します。こ
の戦責告白40年を覚える集会は、教団の中では教区常置委員会主催の形で行ったのは神奈川教区だけではな
いかと思います。昨年10月の私の教師退任勧告が可決された常議員会で、議員提案の形で私が提案者となっ
て教団でも戦責告白40周年を記念する集会を開くようにと議案を出しましたが、常議員会は否決しました。
上記の私の発言に続いて一人の方から発言がありました。3月16日の黙想と祈りの夕べ通信にあるナウエ
ンの「柔軟さの長所」という文章の中に、「柔軟さは大きな長所です。自分の見方や考え方に固執し、今置か
れている位置にしがみついて、他の人の考えや行いによって少しずつ影響を受けることを拒むなら、私たちは
簡単に壊れてしまします」とある。この頃自分も年を取ったせいか、以前の若いときからすると、自分が変え
られているように思える。以前はしっかりしなければとか、自分が何とかしなければという意識が強く、突っ
張ったものが自分の中にあったが、段々とほぐれてきて、どうにかなるさという面が自分の中に出て来たよう
に思える。反面正義感というか、かつては自分のことに目が向き、自分がどうするか、何が出来るかという自
分の内側に関心が向いていたが、段々と周りが見えるようになってきて、怒ることが多くなった。ノーはノー
と言い、後は任せていく。私自身これからもいろいろなことがあると思うが、ナウエンの「葦のように」
(「野生の葦のようにというのは、優柔不断であるということではありません。それは、大地にしっかり根を
下ろして、一時の風にちょっと揺らぐことです。・・・・しっかりと根を下ろし、しなやかでありましょう」)、
歩んでいきたいと思っています。
続いてもう一人の方から発言がありました。20年来花粉症に悩まされている私にとってレント(受難節)は、
イエス様の受難を想い巡らすことに加えて、気持ちがさらに暗くなる時である。自分が直面する問題を私は越
えていかれるのかと不安になる。北村先生は聖研で、復活による希望、終末がすでに約束されているから、未
完成の過渡期を生きる私たちはそれに向かっていこうとすることができるのだとおっしゃった。不信、怒り、
分裂の渦の中に留まるのではなく、信頼、喜び、一致へと向かっていきたいと強く願う。
「私たちがそれぞれたった一人であることを分かち合う」3月23日
時として友だちは、私たちを癒し、神の許しを差し出してくれる、治療士や聴罪師以上の存在です。
友だちは、孤独を語り合い、沈黙、祈りを共にすることの出来る人です。友だちは木を一緒に見て「きれい
だね」と言える人であり、浜辺に座って太陽が水平線に沈んで行くのを黙って見ることの出来る人です。友だ
ちと一緒にいる時、私たちは何か特別なことを言ったりする必要はありません。友だちと一緒にいるなら、私
たちは沈黙し、神が私たち二人と共におられることを知ることが出来ます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)