黙想と祈りの夕べ通信(442)復刻版を掲載します。2008年3月のものです。
最高裁上告棄却後、いろいろな方から励まされています。船越教会の一信徒の方からいただいたメールです。
「最高裁の判決には幻滅感を抱いています。上級審に行けばいくほど権力側に沿った結論を出す事例をこの50
年に渡ってみてきましたが今回も例外ではなかったですね。最低限の人格権さえ守れない司法とはいったいな
んなんでしょう。混沌たるこの国の未来を憂慮せざるを得ません。安部政権の暴走、特に彼らの基盤である憲
法を蹂躙されているのにNO と言えずに権力に寄り添うかのごとく見える司法の姿に寒い思いです。神からの
召命を受けて何十年誠実に福音を宣べ伝えてきた北村さんに免職を言い渡す教団執行部とは何時から神の代理
人になったのでしょうか?この時代や社会にコミュニケートすることもできず、自縄自縛の形相の中に矮小化
されたキリスト教団に未来があるとは思えません。私たちの平和宣言で述べているように多様性こそイラク、
シリア、ウクライナ等だけでなく教団の紛争解決へのキーワードだと思います。私自身としては最高裁判決に
囚われることなく、神の側に立つとの想像力に従って船越教会が歩むことを念願します。北村さんが教団の過
ちに対して渾身の努力をされてきたことを感謝し、その労苦が報われる日が訪れる日が必ず来ることを確信し
ています」。
一キリスト者としても、信仰においてめざすべき未来を共有することができる友をあたえられていることは、
本当にありがたく、また嬉しいことです。
黙想と祈りの夕べ通信(442[-24]2008・3・16発行)復刻版
いよいよ来週から受難週です。私は前にも話したことがあると思いますが、イエスのガリラヤでの働きとエ
ルサレム行きによる受難と十字架がイエスの中でどのように関連づけられていたのかということに関心があり
ます。ガリラヤでのイエスの働きは主に病者の癒しであり、貧困や差別で苦しんでいる人々の救済と言ってよ
いでしょう。もしイエスがエルサレムに行かなければ、ユダヤの神殿支配体制の中心にいる大祭司や属州を支
配するローマの総督ピラトとぶつかることもなかっただろうと思われるのです。ずっとガリラヤで活動してい
れば、もっともっと沢山の苦しんでいる人たちを助けることができたと思うのです。なぜエルサレムに行き、
権力者によって殺されるようなことになったのでしょうか。わざわざエルサレム神殿で両替人の台やハトを売
る者の腰掛をひっくり返したりしたのでしょうか。この神殿でのパフォーマンスの後で、イエスは「『わたし
の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言ったと
いわれています。神を差し置いて、神の名を自分の都合のよいように用いて、自らの権力支配を正当化しよう
とする人間の驕りを、イエスは黙って見過ごすことができなかったのではないでしょうか。神の支配としての
神の国にあっては、人は上も下もなく皆平らな関係だからでしょう。今年もイエスの受難と十字架について思
い巡らしたいとおもいます。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。三つのことを話したい。一つは、先週の日曜
日に自分はある人を傷つけてしまったことである。二つ目は、信和会と壮年会の総会があったが、信和会はど
うか分からないが、壮年会は5人、青年会を入れても男6人しかいなかった。今日の聖書に「あなたの末は堅く
立てられるでしょう」とあったが、教会の将来に危機感をもっている。自分は既に信和会の年齢だが、これか
らも壮年会の一員としてやっていきたい。三つ目は、今日の聖書朗読個所のマルコ福音書10章38節には「・・・
このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」とある。山北
教団総会議長は洗礼が先で聖餐が後と言うが、ここでは聖餐が先で洗礼が後であると、気づかされた。
続いて別の方の発言がありました。近所の方で明らかにアルコール依存症と思われる人がいる。しかしその
人も母親も病院へ行く意志がない。このままだと心配だ。何とか力になれないものか。という問いかけがあった。
もう一人の方の発言がありました。受難週が近づき、イエスの道行きが思い出される。
年度末で忙しいのだが気持ちがもうひとつ元気が出ないでいる。たまたま自分が属する二つのグループで会
報をそれぞれ出そうということになった。どちらのグループでも、自主的に原稿を書いてくれる人が名乗りを
あげてくれた。以前の私だったら、文章を書くことが苦手で、頼まれてやっと仕方なく書くということだった
が私も書きたいことがある。暗い時代だから何かを表現したいという思いがあるからなのだろうかと思わされ
ている。私たちには差別の意識があり、今なおイエスを苦しめている反面、イエスの復活の光を見ることが出
来てうれしい。復活のイエスの出来事に出会わせられて、精一杯生きている人たち、うねりの会等のグループ
が教会を超えて関わり、語るものがあり、共に生きている。これからもそうした関係に励まされイエスに十字
架の痛みを負わせ続けている中で光を見出して歩み続けたい。
「柔軟さの長所」 3月16日
木は、野原の野生の葦と比べると強そうです。けれども嵐が来ると、根こそぎにされてしまいます。それに
反して葦は、風に吹かれて前や後ろに揺らぎながらも、嵐が静まった後も再びまた立ち上がります。
柔軟さは大きな長所です。自分の見方や考え方に固執し、今置かれている位置にしがみついて、他の人の考
えや行いによって少しずつ影響を受けることを拒むなら、私たちは簡単に壊れてしまいます。野生の葦のよう
にというのは、優柔不断であるということではありません。それは、大地にしっかり根を下ろして、一時の風
にちょっと揺らぐことです。現在の物事について、ユーモアを欠き、神経を張り詰め、頑固になって硬直して
しまうと、私たちは魂を壊すことになってしまい、とげとげしくなってしまいます。しっかりと根を下ろし、
しなやかでありましょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)