なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(563)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(563)復刻版を掲載します。2010年7月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(563)[Ⅺ-40]2010・7・11発行)復刻版


 必要があって、「日本伝道150年」関連の本を数冊読んでいます。 悒リストこそ我が救い~日本伝

道150年の歩み~』(日本基督教団日本伝道150年記念事業準備委員会編)。これは教団のものです。日

プロテスタント宣教150年の記録『キリストにあってひとつ~主イエスの証し人として~』(日本プロ

テスタント宣教150年記念実行委員会編)。『日本開国とプロテスタント宣教150年』(第5回日本伝道

会議・プロテスタント宣教150年プロジェクト編)。直接150年とは関係ありませんが、ぁ愡ニ收觚澄21

世紀における教会のチャレンジ~』(第5回日本伝道会議・宣言文起草プロジェクト編)の4冊です。後者

の2冊は福音派の諸教会で作っている日本福音同盟から出ているものです。実は西中国教区から依頼されて、

第2回西中国教区の歴史から「日本伝道150年」と問う集会で、〈「日本伝道150年」と合同教会としての

日本基督教団〉という題で私が話すことになっていますので、上記のものに目を通しているという次第で

す。そもそも「日本伝道150年」という歴史認識そのものに問題があり、「日本伝道150年」を記念して何

かをするということは沖縄の切捨てに繋がりますので、その観点からの批判で十分ではないかと思います。

しかし、それでは余りにも一方的なように思えて、一応「日本伝道150年」に込められたそれぞれの集会

主催者の意図や考え方を理解しておきたいと思って上記の本を読んでいるわけです。一応上記の4冊の本

に目を通して見て、一番粗末に感じたのは,龍誼弔里發里任后M廚垢襪某仰の一致がなければ伝道はで

きないという現在の教団の主流の考え方、立場に貫かれたものに過ぎません。この50年の教団史を上田光

正さんが書いていますが、その歴史認識、教会理解、宣教理解は極めて観念的であり、一方的です。上田

光正さんは、かつて青年時代に当紅葉坂教会で一緒に過ごした仲間ですが、今は私とは全く反対の立場に

あります。特に山北議長の第35/20回教団総会での議長報告の中で、教団の戦責告白以降の40年を「荒野

の40年」と否定的に評価しましたが、上田さんはその山北さんの「荒野の40年」を相当積極的に評価して

います。私はこの教団の40年は、教会の存立そのものが問われた40年ではないかと思っています。その意

味で上田さんとはこの40年についての理解が全く対照的です。何が基本的に違うのかということですが、

それは上田さんと現在の教団の主流派は、この40年の教団の歴史では神との垂直関係が希薄化し、水平関

係を優位に考えて信仰がとらえられた結果、信仰の人間化、世俗化に陥ったというわけです。私は垂直関

係と水平関係を分離し、垂直関係を優位とする信仰理解に立ちません。神関係において人間関係が、人間

関係において神関係が問われていると考えてきましたので「神関係=人間関係」という構図で、垂直関係

と水平関係をとらえています。何れにしろ、,砲魯戰奪謄襯魯ぅ爐硫縄伝道を捨象した痛みすら感じら

れません。現在の教団主流派の居直り以外の何ものでもありません。この教団の「日本伝道150年記念宣言

」には、全くベッテルハイムについて触れられていません。△篭誼弔盍泙瓩芯橋鞠匹里發里任垢、こち

らの大会宣言には、一応ベッテルハイムについても触れられています。は福音派日本福音同盟による

日本伝道会議が母体となった論文集ですが、「沖縄から見た日本プロテスタント~私たちは歴史によって

圧しつぶされている(R.グールモン)~」という沖縄のバプテストの方が書いた論文が収められています

。同じく日本伝道会議を母体としたい任蓮沖縄の痛みや少数民族アイヌの問題も受け止めて、教会の宣

教の課題(21世紀における教会のチレンジ)が模索されています。この「札幌宣言」の「第2章危機の時代

における私たちの使命」の「第3節私たちの使命」にはこのように記されています。「福音こそ、人を変

え、世界を変えていく力です。私たちは福音のことばに聴き従い、希望を抱いて福音宣教に励みます。/

また、今ここで、神の国が教会を通して実現していくことを祈り求め、地の塩、世の光としての社会的責

任を果たします。人間関係の崩壊現象を食い止めるため、私たちは和解の民として、平安と慰めをもたら

すよう努めます。国家が神の御旨に背くことがないよう見張り人として警告し、平和の実現のために努力

ます。また世界的な規模で拡大している貧富の格差、暴力の連鎖、環境汚染に対し、平和の主によって解

がもたらされるよう力を尽くします。/このような使命を確信し、私たちは、家庭、教会、地域社会、日

本、世界において、力強く宣教協力を進めていきます。」

 いつの間にか日本基督教団福音派の教会からも取り残されていくのではないか。上記の4冊の本に目を

通しながら、そんな思いに駆られてしまいました。   


           「受ける時、与える時」     7月11日


 いつ人に注意を払い、いつ自分に関心を持ってもらったらよいかを知ることは、大切です。見返りを何も

期待せず、与えて、与えて、与え続けようとすることがよくあります。それが心の広さの表れであり、英雄

的な行為であるとさえ思うかもしれません。けれどもそれは、「人の助けはいらない、ただあげたいんだ」

という傲慢な態度とさして変わりません。受けることなく与え続けていると、すぐ燃え尽きてしまいます。

私たちが喜んで与え、そうし続けることが出来るのは、自分の肉体的、感情的、精神的、霊的な必要に対し

て思いやりに満ちた関心を払う時だけです。

 与える時と受ける時があります。健康な生活を送るためには、両方の時が等しく必要です。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)