なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

現場から「伝道」を考える(その2)

 先週の日曜日は、急遽礼拝説教を代わってもらいましたので、私はしていません。この土曜日に

は説教を掲載していますが、昨日からの続きで、兵庫教区教師部主催研修会で話したものを掲載し

ます。 


             「現場から『伝道』を考える」(その2)


(5) 「未受洗者配餐」

・先ず「聖餐」に関する私自身の体験は、2006年1月号の「福音と世界」に書いたものがありますので、それをご覧ください。神学校を出て、最初に赴任した足立梅田教会でも、名古屋の御器所教会でも、聖餐については潜在的には問題がありましたが、教会の中では殆ど表面化していませんでしたの。1995年4月に紅葉坂教会に来るまでは、伝統的な形で洗礼者に限られた聖餐式をしてきました。そもそも聖餐式に関しては、余り強い関心を持ってはいませんでした。聖書解釈に基づく言葉による説教中心に、礼拝も、牧師の働きも考えて来たからです。

・1960年代後半からリタージカル・ムーブメントが世界的に広がってきて、日本の教会の中でも説教と共に聖餐についての関心が呼び起こされました。中にはその頃から説教と聖餐は一体化したものであり、切り離せないと、毎日曜日毎に聖餐式を執行する教会が現れるようになりました。

・私は、1995年4月に紅葉坂教会の牧師として働くようになりました。実は紅葉坂教会は、私が高3の時、1959年11月にはじめて礼拝に出席し、その年の12月のクリスマスに洗礼を受けて以来、青年時代を過ごしてきた教会で、いわゆる私にとっては母教会に当ります。1968年4月から1974年3月までは、最初の任地である足立梅田教会に在籍していましたが、1974年4月から1977年3月までは、担任教師(伝道師)として紅葉坂教会で働いていました。その後名古屋の御器所教会で18年働き、1995年4月からは、今度は紅葉坂教会の主任として働くようになった次第です。

・ですから、1995年4月に紅葉坂教会に着任した時には、それまでの紅葉坂教会の歴史について、私自身は大体は把握していました。聖餐の問題が、以前から紅葉坂教会に内在していたことも、ある程度知っていました。紅葉坂教会の中で実質的に「未受洗者配餐」が行われるようになったのは、1980年代後半からではないかと思われます。これは、当時の牧師岸本羊一さんの独断で行われるようになりました。紅葉坂教会は会衆派の教会ですが、信徒の大半は牧師を立てて、牧師のやり易いように教会形成をしていくという牧師主導の教会として歩んできました。よほどのことが無い限り、牧師のやることに文句をいう事はありませんでした。陰では牧師批判もありましたが、それが表面化することはほとんどないという教会でした。そういう意味では、会衆派の教会が持つ直接民主制、牧師も信徒もみんなで教会形成をしていくという面は、理念としてはあっても、実態は牧師主導になっていました。

・岸本羊一牧師が、突然聖餐式の執行の中で、それまでは「洗礼を受けている方は、どこの教会に属していても聖餐に与ることが出来ます。しかし、洗礼を受けていない方は、しばらくお待ちください」と言っていたのを言わなくなったのです。1990年の頃の役員会で、そのことが問題になって、一役員から質問を出ていますが、岸本羊一牧師は、それに対して、「この聖餐の問題は、難しい問題なので、役員会を中心にこれkら学んでいきましょう」と答えていますが、実際には、その後役員会で聖餐について話し合われることなく、1991年8月に岸本羊一牧師は帰天してしまいます。

・その後、3年間若い牧師が2人(1年と2年)紅葉坂教会で働かれましたが、後の人の時に、礼拝の中で行われた聖餐式で、中高生の出席者が陪餐したのを近くで見ていた年配の女性信徒が、「この聖餐式は、洗礼を受けた人が与るもので、洗礼を受けていないと与ることはできないのよ」と、その中高生に注意したということが起りました。そういう問題を抱えていた時に、私が紅葉坂教会の牧師に着任しました。役員会から、先ず私自身の宣教方針について問われました。同時に、聖餐について、今の状況では、中高生の問題はまたいつでも起こり得るので、何とか道をつけて欲しいという要望を受けました。

・先ず、宣教方針について取り上げました。「自立と共生の場として教会」という、御器所教会時代に皆と考えてきた宣教の在り方について、何回かに分けて話し、問題提起し(資料3)、それが受けいれられて、毎年役員会と牧師提案として、教会総会で、何年度の「牧会方針と教会行事予定の承認の件」を諮るようにして、教会の方向性を明らかにするようにしました(資料4)。

・その後で、聖餐の問題を取り上げました。約3年間、集中的に相当の議論を積み重ねました(資料5)。その結果、1999年3月の教会総会で、教会規則第8条削除を決め、そのことをもって、聖餐は希望する者には誰でも与れるようしました。式文の内容については、役員会で牧師の裁量ということにしました。その後の聖餐式では、基本的に福音と世界に書いてあるような招きの言葉を語って、聖餐式を執行してきました。

・ちなみに現在私が牧師として働いています船越教会では、礼拝式文というものが1970年代から作られていて、何度か改訂されて、現在でも用いられています(資料7)この船越教会の実践については、明日の会でお話しする予定です。聖餐式に関する船越教会の実践は、1987年教団出版局発行の、宣教研究所がまとめた『聖餐』の中にも、事例の一つをして出てきます。いわゆる「未受洗者配餐」は、既に自覚的に70年頃からはじめていた教会があったわけで、私が最初ではありません。

・教会規則8条削除は、教会規則変更申請という形で、教区常置委員会を通して教団の同意を求めました。教区常置委員会は、紅葉坂教会の申請に困惑し、内容に同意するわけではないが、規則変更なので、教団に判断を委ねるという形で、常置委員会で承認して、教団に上げました。教団は、教区が内容はともかくという形で紅葉坂教会の規則変更申請を教団に上げてきたことがおかしいので、ひとまず教区に戻すという処置をしました。教区は教団から戻されたというので、そのまま紅葉坂教会に戻してきました。

・教区では、その後教区議長が教区の宣教委員会に聖餐意ついての諮問を出しました。宣教委員会は、「未受洗者配餐」を行っている紅葉坂教会となか伝道所の二つに聞き取り調査を行なった上で、〔ぜ??垉擇咫嵳鳥倞??圈廚稜羯舛髻現在実施している教会については、その決定に至る経緯を考慮しつつ、各教会の宣教的、教会形成的取組みを尊重する。∪算舛亡悗垢訖棲愿、歴史的研究を、教区の取組むべき課題として位置付け、実践的検証を踏まえた議論がなされる場を早急に設置し、各個教会の形成に資する情報を提供する。という答申を出しました。

紅葉坂教会役員会としては、その時の教団執行部の姿勢からして、紅葉坂教会としては教会総会で変更した規則で今後運営していくことと、教会からは強いて教団に問いかけはしていかない、教団側からのアクションがあった場合には、それにきちっと対応する。教団成立と戦争責任の問題があるので、教会からは日本基督教団から独立して単立教会になる選択はしない。教団との折衝の中で、そういう選択をせざるを得ないこともあるかもしれないが、その場合でも教会から教団を出るのではなく、教団から排除された場合、そうせざるを得なくなるかもしれない、という話をしていました。

・その後、私の退任勧告、戒規免職問題が起こるまでは、一切教団からは何もアクションはありませんでした。私の問題が起ってから、紅葉坂教会の教会規則は変更を認めていないので、まだ8条はそのまま生きていて、北村は教会規則上も違反しているという主張を教団側はしてききました。

・では、何故私が「未受洗者配餐」への道を紅葉坂教会においてつけるために、膨大な時間を使って取り組んだのかについて、お話をしたいと思います。ヾ獷帽藩婪箒飢颪任麓村租に「未受洗者配餐」が行われていること。∈能藉釮龍飢颪任蓮愛餐と聖餐は一体化していて、聖餐はイエスを中心とした交わりの中で行われていること。従って、その交わりを礼拝共同体として考えれば、礼拝に集う者はだれにでも聖餐は開かれていると考えたこと。6誼弔領鮖砲砲いては、古くは礼拝に来る者を分け隔てできないという考えから、70年代前後からは、聖書学や宣教学の知見を得て、自覚的に教会の在り方として「未受洗者配餐」に踏み切っている教会が相当数あったこと。い修靴堂燭茲蠅癲∪算舛竜原の一つと考えられている5000人や4000人の供食の物語、貧しい人たちや罪人(社会から疎外されている人)と、イエスが共に食卓を囲んだこと。特に紅葉坂教会は歴史的に寿地区センターの活動に、最初の時から深く関わり、寿で行われている「炊き出し」と聖餐を通底したものがあるのではないかと考える人が、既に紅葉坂教会の中にはいたし、私自身そのように考えていたからです。しかも紅葉坂教会は、1980年頃から積極的に社会に開かれる教会をめざし、さまざまな理由でこの社会の中で悩み苦しむ人々に寄り添っていく教会でありたいと願って歩んで来たこともあって、そのような教会の姿勢を私自身も大切に考えていたからです。イ修靴匿棲愿には、バルトのサクラメント観、つまりサクラメントイエス・キリストご自身だけであって、洗礼も聖餐も教会の応答であるという理解にも共感していたからでもあります。
 以上が、私自身の中での「未受洗者配餐」を可とする理由です。

(6) 教会とは何か(伝道牧会の展望をどのように考えているか)

・そこで、「未受洗者配餐」という聖餐式の在り方を含めて、私が「教会」をどのように考えているかについて、お話しさせていただきたいと思います。そのことが私自身が〈伝道牧会の展望をどのように考えているか〉に答えることになると思うからです。

・福音と世界の本年10月号に、9月号からの連載で、リチャード・ボウカムというイギリスの聖公会神学者のようですが、インタビュー記事が載っています。その中でボウカムは、インタビュアーからの〈最後に「日本の教会に向けて」一言いただければ幸いです〉という問いに対して答えているのですが、その中にこういうことが言われています。そう長くはありませんので、その部分の前半部分を読ませていただきます。

・~これは、私の推測にすぎないかも知れませんが、日本のキリスト者たちは自分たちが圧倒的に少数者であるという感覚から弱気になっているかも知れません。キリスト教のメッセージに関心がないような社会にどう届くことができるかと。今日、講義の一つで提起したことですが、ヨハネ福音書で用いられている友情のイメージは、現代の西洋、そしておそらく日本でも多くの可能性に満ちたものだと思っています。つまり、キリスト教界を、制度や権威主義的体制としてではなく、イエスの友であり、それゆでにお互い友であるような集まりとして考えるということです。それならば、日本の若者たち、親世代よりも個の自由の感覚が強い人たちが、関係性における自由 ―私はこれを「所属しながらの自由」とよびますが― を見つける一つの場所になるのではないかと思っています。~

・このボウカムが言っていることは、私が今まで教会の働きの中で努力してきたことと、殆ど同じことではないかと思います。私は、教会とは、イエスを中心として集まっている人間の集まり、「兄弟姉妹団」(バルト)だと考えてきました。そのことは、ボウカムが「キリスト教界を制度や権威主義的体制としてではなく、イエスの友であり、それゆでにお互い友であるような集まり」と云って居ることと、ほぼ同じです。

・私は、教会を「自立と共生の場としての教会」と考えております。それはボウカムが、教会は〈「関係性に於ける自由」=「所属しながらの自由」を見つける一つの場所〉と言っていることに近いと思います。ただボウカムが言ところの「自由」とは何かが、この文章だけでは明らかではありませんので、私が考えていることとどこまで一致しているかは、よく分かりません。

・現在の教団執行部(福音主義連合、一部連合長老会、東京神学大学)は、まさに「制度や権威主義的体制」としての教会をめざしていると思います。私は、この在り方には、「お互いがイエスの友であるような集まり」としての教会にとっての将来的な展望はないと思っています。今教団宣教研究所を中心に議論しています「宣教基礎理論改訂第一次草案」(資料8)(最近「第二次草案」が出ました)には、全く展望はありません。ドクマで人間をしばるものだからです。ここからは「関係性における自由」は、全く与えられないと思います。人が観念の共同体の中で奴隷とされていくだけではないかと思います。むしろ、60年代の教団の「宣教基礎理論」(資料9)の方がはるかにまともですし、「関係における自由」をめざしていると思われます。ここでは読みませんが、「日本基督教団説教基礎理論」の「偽飢颪梁亮漸?院廚里箸海蹐鯑匹鵑任い燭世たいと思います。

                                     (続く)