なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(379)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(369)復刻版を掲載します。2006年12月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(379[-14]2006・12・31発行)復刻版


 私は28日(木)から29日(金)にかけて身延線稲子駅から少し山間に入ったところにあるSさんの百姓

屋で行われますYさんの記念会に参加します。Yさんには二冊の説教集があり、それを読んでの感想を発題

して欲しいと頼まれたからです。Yさんは二回紅葉坂教会で説教してくれました。私が伝道師だったとき

(1977年2月?)と5年ほど前とです。どちらも私が推薦しお呼びしました。クリスマスを終えてホッとし

たところに、二冊の本を読んで発題の準備をするのはきついのですが、いろいろな意味で激動のこの一年

にはふさわしいのかも知れません。一年のしめくくりにしたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から以下の発言がありました。黙想と祈りの夕べには今年のはじめ

に数度出席させてもらった。その頃自分が責任を持っている仕事が大変で、葛藤の中で祈った。その後も

黙想と祈りの夕べに出席して祈りたいと思いながら、多忙な毎日で水曜日にも何かあって出られなかっ

た。昨日自分が関わっている会の理事と職員が一緒に食事会をして、最後に頑張って行こうと言って別れ

た。今まではなかなかそういう状態になれなかったので、昨夜はうれしくて興奮したが、寝る時心から神

への感謝の思いを持てた。よし今日は黙想と祈りの夕べに行こうと思った。今日は憩いの家の当番に一日

入った。夫のKさんも一緒だったが、今日は感謝して来るからと言って、黙想と祈りの夕べに来た。神の

見えない力を感じ感謝である。今日のマザーテレサの招きの言葉を聞いて、そうだと改めて感謝した。今

年の初めは苦しんだが、終わりは感謝である。今晴ればれとした気持ちで年の瀬を迎えていられるのは、

本当に感謝である。信仰を与えられている者の喜びではないかと思う。

 続いてもう一人の方の発言が以下のようにありました。私もこの年は7月に紅葉坂教会に転入会させて

いただき感謝である。今年の前半は自分が出席していた教会が保守的で閉鎖的に感じ、違和感で悩んでい

たが、この教会に加えていただき、この教会の社会の矛盾への取り組みを含めて、教会生活を送ることが

できるのは自分としては幸いである。今までの教会では会計のお仕事をさせていただいたが、紅葉坂教会

では伝道と奉仕の働きに加えていただければと思っている。

 また、別の人からの発言がありました。私は昨日までこの一年間は忙しさに追われた。今日はじめて休

んだ。岩国では岩国基地への空母艦載機受け入れを拒否しているので、来年度予算から本来SACO合意で補

助金が出ることになっていて、既に着工している岩国市役所の新築工事への補助金が予算からカットされ

た。そのことで内閣総理大臣安倍普三に抗議した。ところが岩国市議会では艦載機受け入れ拒否を表明し

ている市長の問責が通ったと言う。補助金カットは市長ではなく政府の責任であるはずだ。発言者の中に

反対する者は「日本から出て行け」という声があった。反対する者を排除しようとする力は、教団総会で

も同じように感じた。この月曜日には国会前の辺野古基地建設反対座り込みに行った。この時期座り込み

をしているのは私たち4~5人だけである。ある議員が「風邪を引かないでください」と声をかけて通って

いった。新しい年には国会に共謀罪が一番に出されると言われている。キリストが十字架に架けられたよ

うに、そのような時が来るのではないかと思う。出きることをしていきたいと思う。

 続いてもう一人の方からの発言がありました。今晩の聖書ルカ12:35-40「目を覚ましている僕」の箇

所は、今の私にとってどんな意味があるのかを思い巡らしていた。子どもの頃は一日が今よりもずっと長

かった。年をとるにつれてどんどん短くなる気がする。いろんなことを負わされて余裕が無いなあと思

う。もちろん担うものが多くなったせいであろうが、このままでいいのだろうかとふと思う。「あなたが

たも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」目を覚まして用意しているとは、

どんなに忙しくて自分の思いで一杯になっていても、どこかに何も入っていない隙間、すなわち神様から

呼びかけられるものを受け止めることができるスペースを、自分の中に持っておくことかもしれないと

思った。また折々の区切り目に自分を見直し、新たなスタートを切ることも大切と感じる。来年はこの空

白のスペースを大切に歩みたいと思う。