なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(575)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(575)復刻版を掲載します。2010年10月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(575)[Ⅻ-01]2010・10・3発行)復刻版


 97歳のHさんを見舞いました。6月に骨折し入院治療するまで、数年前にお連れ合いを天上に送った後、

お一人でマンションで生活していました。Hさんはピアノの先生で、入院するまでお弟子さんがマンショ

ンにいらして、防音の部屋にあるピアノでHさんから演奏に対するサゼッションをもらっていたというこ

とです。ところが、6月に入院し、今は老人保健施設にいらっしゃいますが、もうマンションには帰れな

いのではないかと思われます。ご本人もその覚悟はなさっているようです。これまで自分は人の役に立て

ているということが、Hさんの自負でもあり、生きる喜びでもありました。ところが、これからは人から

お世話されることはあっても、なかなか人の役に立つことはできないのではないかと、Hさんは思ってお

られるようです。人からお世話を受けるばかりの生活では、何か申し訳ないというお気持ちが、Hさんに

はあるようです。老人保健施設に入所しておられる方々の多くは、顔に表情が余りなくて、じっとうつむ

いて、毎日を過ごしておられるのでしょう。いつか自分もそうなるのではという不安が、Hさんにはある

のかも知れません。私は、Hさんのお話を黙って聞いていました。私は老いの姿はどのようなものであっ

てもいいと思いますし、中には、名古屋時代でのことですが、寝たきりのお年寄りをホームに訪ねた教

会員の方が、その方がニコニコありがとうと感謝しているので、かえって訪ねた自分が励まされたとお

っしゃっていたことを思い出します。受身の能動とでもいったらよいのでしょか、お世話を受けている

だけに見える人が、お世話をする人に元気を与えているということもあり得るのではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今日で黙想と祈りの夕べは終わるが、私は

黙想と祈りの夕べによって自分が育てられた。以前は人の前で話すことが苦手だった。この会で話すこ

とも訓練された。60過ぎて、人の前で語ったり、文章を書いたりすることが、この黙想と祈りの夕べで

訓練されて、それなりに出来る様になったと思う。ここで話すことは、自己宣伝と言えるかもしれない

が、教会の仲間への信頼を確信したから、自分を語ってきた。一人の人が生きていくことを支え合うこ

とが、この会がなくなっても、教会員同士祈り支え合いながら、これからも生きていきたい。

 続けてもう一人の方の発言がありました。久しぶりにこの会に出席した。この会が11年も続いたこと

は素晴らしいと思う。自分はフリーメソジストの教会で育ったので、信仰にとって祈りと証を大切にす

る伝統を受け継いでいる。その意味で、この会を開いてもらったことは嬉しかった。はじめのうちは出

席して発言させてもらった。また会には出席できなくても、通信によって参加でき、自分の日課となっ

ていた。この会の目的は何か。一人一人に語ってくれていることを感謝している。一人でじっくり考え

、ゆっくりする時間、自分自身を見詰めるときを、これからも続けたい。今日は先生のことも気になっ

てきたが、会が終わった後、皆でゆっくり時間を過ごしたいと思い、カステラを持参した。

 もう一人の方が、この会で最後に歌う賛美歌89番「共にいてください」が好きだと言われた。

 また別の方の発言がありました。私はこの会には1年半だが、みなさんのお話を聞くことができ、自

分が打ち砕かれ感謝です。失言したり、自分の考えを表現することがなかなかできず、10分間の黙想に

集中するのも難しい状態である。心を落ち着かせて深く考えられるようになれたらと思っている。

 最後に、この会に11年間ほとんど休まずに出席された方の発言がありました。

 11年前と今の自分を比べて、全く人が変わった。信仰面でも生活面でも。みんなの前に出たときにも、

以前のような恐れがなくなり、話すことも自然に言葉がでてくるようになった。自分で考えてきた信仰

の中には、沖縄の基地の問題は拒否の対象だったが、今は大切なことだということがよく分かった。知

識の面でも、自分が深められたし、信仰も深められて感謝である。明日から自分で出発する新しい生活

がはじまるを思っている。心から感謝申し上げる。
            

        「無防備と信頼との場所」   10月3日


 共に食卓を囲み、一つのパンから食べ、一つの杯から飲む時、私たちはお互いに一番無防備な状態に

あるといえるでしょう。背中に猟銃を背負ったり、あるいは腰に拳銃をぶら下げていては、仲良く一緒

に食事をすることは出来ません。パンを共に割く時、私たちは武器を戸口におきー物質的な武器であろ

うと心理的な武器であろうと、傷つくことを恐れずに、互いに信じあう場に入ってゆきます。

聖餐の美しさとは、まさに無防備のままの神が無防備な人々に、一つところに集まり心を許してその場

で仲良く食事をするように招いてくださる、ということです。パンを割いて互いに与える時、神は身近

な親しいものなります。
 

                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)