なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(576)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(576)復刻版を掲載します。2010年10月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(576)[Ⅻ-02]2010・10・10発行)復刻版


 黙想と祈りの夕べは9月末で終了しましたが、この通信は希望者がありますので、来年3月末の私の任期

満了まで出すことにしました。

 先日ある方が夏の一ヶ月中国上海に語学留学をした時に、上海の幾つかの教会の礼拝に出席し、どこも

盛況で熱が感じられたと言っていました。以前新聞で中国のキリスト教についての記事があり、それによ

りますと、現在中国はキリスト教人口が9000万人ということでした。中国共産党から正式に認められた教

会と、アンダーグランドの家の教会が中国にはあると言われていますが、この9000万人の中に家の教会に

集う人々も入っているのかどうかは分かりません。おそらく数としてはもっと多いかもしれません。9000

万人としても、中国13億人の人口比6パーセントです。日本の約100万強、人口比1パーセント弱からしても、

統計的には中国の方がはるかにキリスト教が勢力を持っていると言えるでしょう。ご存知のように韓国で

キリスト教人口は全体の30パーセント強といわれます。日本と比べたら、これまたすごい数です。けれ

ども、現在両国の社会の中でのキリスト教の有り様は、福音と社会という関係からしますと、ほとんどは

協調関係にあると思われます。かつての韓国の民主化運動時代のキリスト教は民衆の神学をもって、韓国

社会の中にあって、対抗文化的な面を持っていました。しかし、現在の韓国のキリスト教には民衆の神学

の影響はほとんどないと言われています。中国はもっと共産党支配の関係で協調関係が強いでしょう。そ

うでなければ、現在の中国社会の中でキリスト教は存在できないからです。今回中国の獄中にある民主化

運動家にノーベル平和賞が贈られましたが、メディアが報じる中国共産党の反応は否定的です。このこと

は中国国内におけるキリスト教団体にも、中国共産党一党独裁国家という枠組みの中での活動は許されま

すが、その枠組みを批判したり、崩したりする活動はできないということを意味しています。

 9月はじめに茨城の牧師研修会に呼ばれて、一泊2日を茨城地区の牧師20名弱の方々と共にしました。そ

の中に在日大韓基督教会の若い牧師がいて、彼は日本のキリスト教人口が少数であるということに意味が

あるのではないかということを言っていました。少数者であることの優位性は何かと言えば、福音と社会

との関わりにおいて、その協調関係を優先して福音を妥協的に語るのではなく、聖書に立って大胆に発言

し行動できる可能性ではないかと思います。日本社会においてキリスト教の影響力は、現在よりもはるか

に明治期から大正期にかけての方が大きかったと思われます。国家や地方自治が制度的にも、まだ十分に

整っていなかった時期ですので、教育にしても福祉にしても医療にしても、先駆的な働きをキリスト教

担ったところがあったからです。おそらくその当時の社会のパイオニア的な働きをキリスト教がしていた

ように思われます。当時日本国家は富国強兵に突っ走っていましたから、民衆の生活は貧困そのもので、

そこにキリスト教の働きが入っていくことができたからでしょう。ただ天皇制国家形成の中で、その枠組

みを批判する人々は、キリスト教から社会運動へ移っていき、当時のキリスト教天皇制国家の枠組みの

中で、仏教、神道と同じステイタスを日本の社会の中で獲得する方向へ動いていったようです。何れにし

ろ、在日大韓基督教会の若い牧師の方が言うように、少数者であるからできることがあることは事実で、

私はそのことをこれからも日本のキリスト教は追求・探求していくべきだと思っています。

そこで、これからの日本社会の中で私たちの求められていることは何なのでしょうか。教会の高齢化と若

い方の教会離れの中で、もし私たちに福音の継承を大切におもう思いがあり、教会の存続をねがう願いが

あるとすれば、まだ命の時間を与えられている者は、自分だったら何ができるのかを一人一人がよくよく

祈りつつ、考えていかなければならないでしょう。誰かに何かを期待しても始まりません。自分からはじ

め、人と人とが繋がっていき、その繋がりが、さらに広がっていくエネルギーが与えられたとき、小数で

はあっても教会は地の塩・世の光として現在することができるでしょう。また、命の時間が終わりに近づ

いている方々も、後の世代の方々に、神のみ心がなるようにと祈り続けていきたいものです。み心ならば、

神ご自身が為し給うに違いないからです。 


            「限界を打ち破る」    10月10日


聖餐のサクラメント秘跡)は、私たちの内に、また私たちの間にキリストが現存されるサクラメント

して、私たちを一つの体に結ぶ、他に類をみない力を持っています。年齢や皮膚の色、人種や性別、感情、

経済状態、社会的背景などに関係なくあらゆる人々を結びつけ一つの体にします。聖餐はこれらの壁をす

べて打ち破り、一致と交わりの力に溢れる徴として、この世界に生きるキリストという一つの体を作り出

すのです。

 イエスは御父に熱心に祈られました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にい

るように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうす

れば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17:21)。聖

餐は、すべての人々の間に生き続ける一致、神のみ業であるこの一致をもたらすサクラメントです。


注:このナウエンの聖餐についての言葉が非受洗者配餐を許すものかどうかは分かりません。しかし、

このナウエンの語る聖餐の意味からすれば、配餐者に受洗者と未受洗者という壁が設けられるとは思

えません(北村慈郎)。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)