なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(536)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(536)復刻版を掲載します。2010年1月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(536[Ⅺ-14]2010・1・3発行)復刻版


 あけましておめでとうございます。新しい年が一人一人にとりましてよき年となりますように、

主の導きをお祈りいたします。

 この黙想と祈りの夕べ通信も後9ヶ月で終了させてもらう予定でいます。黙想と祈りの夕べが始まっ

たのは1999年10月からです。ちょうど今年の9月が終わりますと、11年間になります。この黙想と祈り

の夕べは、非人間的な現代社会をキリスト者として生きるためには、黙想という時間を私たちが生活の

中に組み込むことが必要ではないかという私の思いから生まれました。ローズンゲンの聖書日課からそ

の週の日曜日の聖書箇所、詩編福音書を朗読し、黙想と分かち合いの時を持ち、祈るという形式にし

て行っています。讃美もその中に入ります。聖書朗読には解説がありません。聖書本文を読むだけです。

分かち合いは、一週間の生活の中で感じたことをお互いに分かち合う時です。発言に対しては、ほとん

ど批評も批判もありません。聞き合うだけです。発言の中でお断りのあるものは通信には載せません。

通信にはその日の発言要旨にその週の聖書日課と一日一章の本からの引用を入れています。通信は、何

かを感じ、知見が開かれ、それぞれの祈りの生活に役立ててもらえればとの願いを込めて発行していま

す。

 祈りとは神との対話です。私たちの思いや願いを神に訴えると共に、神が今何を思い、何を私たちに

語りかけているのかを聞き取ろうとする、生活の中での営みが祈りです。そのためには礼拝に参加し、

聖書を読むことも欠かせません。私は「聖書と現実との往還」としてキリスト者の生活を言い表してき

ました。現代社会に生きる私たちが聖書と現実との往還の中で自分の日常の営みを創造していくことで

はないかと思います。その意味で黙想と祈りの夕べは私自身にとっての大切な時間です。

 さて12月の28日、29日と熱海で故Yさんを偲ぶ会があり、私も参加しました。Yさんは生前『傍らに立

つ者』I、IIという2冊の本を出しています。偲ぶ会では毎年テーマを絞ってその本からの発題があり、

その発題に基づいて話し合いがあります。その後は忘年会のような形になります。今回Kさんが横田勲の

「恩寵論と主体性(生き方、筆者加筆)」というテーマで発題しました。Kさんの発題は、Yの『傍らに

立つ者』Iでは「主体性」についても問題にしていたが、IIの方では恩寵論の優位性が際立って主体性

についてはほとんど消えているのではないかという問題提起をしました。主体性の問題は、70年来のキ

リスト教批判に関わる者たちが問うてきた基本的な問題で、神さま万歳という恩寵論優位の中で、自分

はこの歴史社会をどう生きるのかということが課題として浮上してこないキリスト教信仰の在り方その

ものの問いです。Yさんは人間的な巾でそういう問いをもつ者と最後まで関わりを持ち続けたが、彼の

キリスト教理解にその問いはほとんど影響なかったのではないかというのが、Kさんの発題だったよう

に私には思われました。 

 「恩寵論と主体性」というテーマはキリスト教信仰に関わる者すべてにとっての大変重要な問題です。

私の説教を聞いて下さっているY・S牧師は、クリスマスカードを下さって、「いつも自らに問われる、

そして今週も・・・と思いをあらたにさせられるメッセージ感謝です」と書いて下さいました。しかし、主

体性への問いがきついと感じられる方には、私の説教を聞いて強迫観念をもたれるかもしれません。そ

れでもイエスの生涯と受難と死(十字架)そして復活信仰を思うとき、自分が問われない恩寵論は現実

を捨象した観念論以外の何ものでもないとしか私には思われません。ということで、今年も私なりに聖

書からメッセージを取り次いでいきたいと思いますので、よろしくお願い致します。 


           「小鳥のように傷つきやすく」     1月3日


 人の一生は尊いものです。それがダイヤモンドのように不変のものだからではなく、小鳥のように傷

つきやすいものだからです。人生を慈しむことは、配慮、関心、導き、助けを必要とする、そのような

弱さを愛することなのです。生まれたばかりの赤ん坊と死に瀕した老人とが、私たちの人生の尊さを思

い起こさせてくれます。私たちが力に溢れ、幸運に恵まれ、人々にもてはやされている時、人生の尊さ

と傷つきやすさを忘れないようにしましょう。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)