なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(535)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(535)復刻版を掲載します。2009年12月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(535[Ⅺ-13]2009・12・27発行)復刻版


 クリスマス礼拝が終わってホットしていましたが、月曜日の国会前の辺野古基地建設反対の座り込み

に人が足りないという連絡が入り、私も参加しました。この日は本当に寒い一日でした。最初いつもい

らっしゃるYさんという方と二人でしたが、3時近くになって戸塚教会のO牧師やSさんという80歳を過ぎ

ていて、ずっと原発問題をはじめ憲法9条擁護の平和運動に携わっておられる方も来ました。Oさんも今

日は人が足りないということでやってきたようです。それにこの方も座り込みによく参加しているHさ

んも来ました。座り込みが予想外の賑わいになった頃、中東の放送局アルジャジーラの記者が通りか

かり、何のための座り込みなのかと尋ねて来ました。米軍の新しい基地をジュゴンの草葉もある美し

辺野古の海に作らせないための座り込みであると答えました。すると取材したいと言って、ビデオ

カメラを動かしながらYさんやSさんにいろいろ質問しました。ぼくがこの二人がいつも熱心に座り込

んでいる人ですと紹介したからです。Sさんに記者は「あなたは何故座り込みをするのですか」と質問

しました。するとぼくの隣で座っていたSさんは、戦前の体験から語りだしました。女学校の頃父が軍

人だったが、父も日本の戦争には反対していたこと。軍隊によるアジアの侵略がいかに非人間的なこ

とであるか。だから戦争は絶対にしてはいけないこと。戦後は戦前の反省に立ってずっと平和運動

していきたこと。辺野古もそこに米軍の基地が作られると、そこから爆弾を積んだ飛行機や兵隊が戦

場に行って、人を殺すこと。一つ一つセンテンスを切りながら、はっきりと力強くおっしゃいました。

ぼくは隣で聞いていて、ひとりの人がずっと平和運動に携わって、平和な社会を造り出すという課題

に希望を託してご自分を賭けていくということの重さを感じていました。記者はSさんの隣にいたぼく

の帽子に「NO BASE HENOKO」と書かれたワッペンを見つけて、それを撮らせてくださいと言って、

ぼくの帽子も撮っていかれました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。昨日自分が関わっている知恵遅れの

方の作業所の昼食作りをしに行った。料理をつくるだけでなく、クリスマスなので、クリスマスプレ

ゼントも持っていった。この日はこの作業所の食事作りの後、頼まれていた寿学童のクリスマス会の

準備に行き、帰るのが午後7時過ぎになった。この二つのクリスマス会にはどこにもイエスさまが出て

来ない。特に寿学童の子供たちには、沢山の差し入れがあり、みんなお腹一杯食べて満足した。クリ

スマスって何?と問うても、教会とは違って、イエスの誕生というよりもサンタクロースの方が実感

として大きいに違いない。クリスマスが何だか分からなくても、うれしい時という形で経験できるこ

とは子供たちにとって大切なことではないかと思う。『サンタクロースの部屋』という絵本がある。

心の中にサンタクロースの部屋をもっている人のことが書かれている本だ。クリスマスが何だか分か

らないけれども、うれしい。いろいろな人から差し入れがあり、子供たちにはうれしい日に違いない。

そういう周りの人たちの子供たちを喜ばせてあげたいという優しさをいっぱい受けることによって、

子供たちは「生きていこう」と思う力になるのではないか。プレゼントをもらったりして、夢のある

ことではないかと思わされる。

 また別の人の発言がありました。今朝おばが亡くなったという知らせが電話であった。いつその訃

報がくるかと待っていた自分がいやだったが、今朝きた。おばは手術を7年前にして、その時医者から

余命1年と言われたが、7年も明るく過ごすことができた。入院していた病院にお見舞いにいった時に

は、エレベーターのところまで、帰る私を見送ってくれた。電話でも笑い声で応対してくれていた。

(その後発言が続きましたが、聞き取れませんでしたので、割愛させてもらいます。)

 「黙想と祈りの夕べ通信」も2009年はこれで終わります。クリスマス礼拝、祝会、音楽の捧げもの

燭火讃美礼拝と今年も恵まれました。新しい年が皆様にとってよき年となりますように。  



        「裁かないでそこにいる」      12月27日


  キリストによって私たちが神と和解させていただいたことを受け入れる度合いに従って、私たちは

他の人々にとっての和解の使者となることが出来るでしょう。和解の働きにとって絶対に必要なことは、

裁かない態度で人々と関わり続けることです。裁いたり、非難したり、評価したり、等級をつけたり、

レッテルを張ったり、このようなことのために私たちはこの世に遣わされたのではありません。人々に

ついてこうだときめつけてかかり、人に、どこが間違っていて、どう変わるべきかを教えなければなら

ない、といった態度で何かをしようとするなら、私たちはさらに人々の間を引き裂くだけです。イエス

はそのことをはっきりと言っておられます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れ

み深い者となりなさい。人を裁くな。・・・・・人を罪人だと決めつけるな。・・・・・許しなさい」

(ルカ6:36-37)。

 人々にレッテルを張ることが当たり前になってしまっている社会では、裁かずにそこにいるというこ

とは、ほとんど不可能のように思われます。けれども、裁かないということは、深い霊的な生活の最も

すばらしい果実です。和解を待ち望んでいる人々には、すぐにそれと分かるに違いありません。


               (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)