なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(534)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(534)復刻版を掲載します。2009年12月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(534[Ⅺ-12]2009・12・20発行)復刻版


 昨夜辺野古への基地建設を許さない実行委員会主催の「首相官邸への抗議行動」が午後6時からあり、

私も参加しました。沖縄の教会で数年働かれたO牧師もいらいしていました。「ぼくは沖縄にいたので、

こういう集会には出ています」と、80過ぎのO牧師のファイトには頭が下がりました。抗議行動は15分

程度で終わり、その後星陵会館ホールで午後6時半から「普天間基地はいらない 新基地建設を許さな

い緊急集会」があり、そちらにも参加しました。会館は450人から500人収容の施設ですが、この日は

650人くらい集まったらしく、消防法の関係で会場に入れなかった150人程の人はロビーで急遽用意し

たテレビでの参加になりました。私も会場の椅子席には座れず、椅子席と椅子席の間の通路に座って

いました。主催者側の挨拶から壇上の発言者は皆高揚感に溢れていました。主催者側の挨拶に続いて

10人ぐらいの社民党民主党の国会議員の挨拶があり、メインの沖縄から駆けつけた二人の発言があ

りました。二人とも1月の名護市長選は絶対に勝利しますと明言していました。その後平和フォーラ

ム加盟団体と実行委員会からのアピールがあり、この集会は終わりました。数は少ないですが、私が

今まで参加した市民団体の集会からしますと、今回の集会には確かに熱気が漲っていました。集会中

これは何かを考えていましたが、二つのことに気づかされました。今回の集会の熱気は、一つは変わ

るかも知れないという変化への期待感だと思います。もう一つはそれに基づいた希望ではないかと思

いました。「変化と希望」が感じられる時に、人は元気を取り戻すことができるのではないでしょう

か。このことは極めて信仰的なことのように思わされました。神の到来を間近にして生きる者は、変

化と希望に賭けることができます。信仰の本質は希望です。私は今回参加した市民集会から改めてそ

のことを教えられました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。テレビを見ながら、鳩山首相普天間

題での揺れを、息子と話した。アメリカだったらこんなに奇麗な自然を壊して基地をつくるというこ

とはない。アメリカでは既にジュゴン裁判の勝訴など辺野古に基地はつくるなという声があがってい

る。日本は何で今までこんなに我慢させなければならなかったのか。Cさんの5年間の国会前の座り込

みを考えると、辺野古への基地建設が少しずつ遠のいているようで、感無量である。奇麗な海を残し

たい。

 続いてもう一人の方の発言がありました。実は国会前の座り込みを続けていて、結論が先送りされ

る度に、まだ座り込みは止められないのかという気持ちにさせられている。夏と違って冬の座り込み

は厳しい。特に私たちが座っている国会前の場所は、日陰で風の通り道のようで、寒さに心が萎える

のだ。そんな気持ちの今日、沖縄のTさんが、辺野古の海岸で拾った貝殻を送ってくれて国会前で座っ

ている人に分けてくださいとのことだ。そこに添えられていた手紙には国会前の座り込みによって沖

縄の辺野古での座り込みも支えられていると言ってくださっている。そうした交流ができるのはある

独りの方でこつこつとカンパを集め、東京で行われる辺野古の基地建設反対運動をビデオにしてまと

めてくれる人がある。その人が私たちの座り込みの様子をビデオに撮って時々送ってくれている。こ

うした出会いがあると元気づけられる。沖縄のおばあに代わって、私たちが座わろうということで、

座り込みは始まった。80代、70代の方たち数人だがどういう状況になろうとも、希望をもって繋

がっていられるので続けられる。日本基督教団の総会で合同のとらえなおし議案が全て審議未了廃案

になって以来のことである。沖縄の辺野古の新基地建設がなくなって他に基地がつくられるとすれば

それでいいというわけではないが、素晴らしい海を残していきたい。

 最後に一人の方が、3人の話を聞いた感想を述べ、オバマノーベル平和賞講演に触れて、平和のた

めの戦争は絶対にないことを肝に銘じて歩んで行きたいと述べた。


         「他の人々のために神を見る」   12月20日


 時が満ちるという体験は、祈りの生活を深め、宣教の働きを強めるために私たちに与えられていま

す。時が満ちる時、神は、今ここにおられ、実在となり、手で触れることが出来そうなほど近くに感

じられます。そのため、私たちはすべての人が私たちと同じように神を見るわけではないということ

が信じられないくらいです。時が満ちて神を体験すると、私たちは、神と共にいたい、体験した神を

他の人たちにも宣べ伝えたいという願いを生涯にわたって持つようになります。

 イエスの死後何年もしてから、ペトロはダボル山での体験を自分の証しの原点として語っています。

「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を

用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。・・・・わたしたちは、

聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(2ペテロ1:16-18)。私た

ちの人生の中で最も心の通い合った瞬間に神を見るということは、他の人々のために神を見ることです。 


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)