黙想と祈りの夕べ通信(464)復刻版を掲載します。2008年12月最後のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(484[-13]2008・12・28発行)復刻版
2008年が終わろうとしています。この時に当り、1年を振り返り所感を述べさせていただきたいと思いま
す。
私の教師退任勧告につきまいては、2007年7月の常議員会で、山北議長から聖餐についての発題を依頼さ
れ、私が引き受けて発題をしたのが発端です。記録も取らない懇談ということでしたが、その後の10月の常
議員会で突然「北村慈郎教師の教師退任勧告を行う件」という議案が議長提案の形で常議員会に出てきまし
た。その常議員会ではこの議案を可決し、その後私のところに教師退任勧告書なるものが送られてきて、
2007年12月末までに回答するようにとありました。そこで、私はこちらの問いに一切答えないので、回答は
できないという回答を送りました。2008年2月の常議員会では再勧告書なるものが承認されて、私のところに
送られてきました。6月20日までに回答するようにとのことでした。4月末から5月にかけて神奈川教区以外の
諸教区の総会が開かれました。幾つかの教区からは私の教師退任勧告の取下げの議案が可決されました。6月
末に開かれた神奈川教区総会でも勧告撤回の議案と聖餐の論議の場を教団に設置する議案が可決されました。
私は再勧告書への回答を6月19日に出しました。その内容は、諸教区の総会からして私の教師退任勧告につい
ては意見が二分されているので、その現実を直視し、一教師の処分というのではなく、聖餐についての話し合
いをしていくように希望するというものでした。しかし、その私の回答以前に、7月の常議員会の議題が送ら
れてきて、その中に私の戒規申立の件があったのです。7月常議員会ではその私に戒規を適用すべく、教師委
員会に戒規申立を常議員会が提訴することが可決され教師委員会に回付されました。その段階で10月21-23に
教団総会が開催され、教師退任勧告の取り消し乃至は撤回の3議案は否決されましたが、戒規申立の手続きの
無効という議案は可決されました。一種のねじれ現象ですが、現在の教団の大勢は洗礼を受けていない者にも
開かれた聖餐は認めないが、そのような開かれた聖餐を執行している教師の処分まではどうかということで
しょうか。12月開催の第36/21回総会期第1回常議員会では、戒規申立は手続きが無効ということで、議
長乃至は常議員会が提訴することは無効という判断で、各教区の常置委員会が提訴することはできるのだとい
う発言が数名の常議員から出ました。ということは、開かれた聖餐を実施している教会とは一緒にはやれない
という立場の教会・信徒・教師が教団内には一定数あるということです。そのような立場の人たちは、信仰
職制の一致がないような教会は教会ではないという考え方なのでしょう。戦後の教団が直面した会派問題
(戦後自由になったから、元の教派の教会に戻るという運動)を乗り切るために信仰告白の制定が1954年に
ありました。それは、日本基督教団に属する旧日基の長老主義の教会では信仰告白による一致なければ教会
とは言えないということで、旧日基の教会を教団の中にとどめておくためでした。
信仰職制の一致がなければ、教会とは言えないという主張をする人たちへの私の疑問は、ではなぜ日本基
督教団が成立し、その教団に加盟したのかということです。教団成立時には教団という教会には信仰職制の
一致はありませんでした。教団は部制をとって、それぞれの伝統をもつ教派の教会をそのまま抱え込んで成
立しました。教団成立には、国からの強制とそれに内応・順応した教会の側の主体的な選択がありました。
その教団の成立には、信仰職制の一致がなければ教会とは言えないという主張は、影に追いやられたのです。
今教団の中でその主張が跋扈しているのは、自分たちと違う立場の者への切捨てのためです。そのことに惑
わされず、教団に所属する教会の基本的な課題は、教団成立の問題をどう乗り越えて、教会としての信仰的
主体性をもてるかどうかにあることを覚えて、新しい年に向かって地道に宣教の働きを担っていきたいと思
います。
「人々の安全地帯」 12月28日
人を裁いたり、罪人だと決めつけようとする必要から解き放たれる時、私たちは、互いの弱さそのままに
出会うことの出来る安全な場所となり、互いに隔てる壁を取り去ることが出来るに違いありません。神の愛
に深く根ざしていると、互いに愛するようにと人々を招きたくなるものです。私たちが隠れた目的や、言わ
ずにいる意図など持たず、自分のために利益を得ようともしておらず、ただ平和と和解を望んでいるだとい
うことを人々が理解した時、人々は銃を戸口に置いて、敵対する人と話す、内なる自由と勇気とを見出すこ
とでしょう。
こういうことは、私たちが意図としていない時でさえ、よく起こることです。私たちの和解の働きが最も
よく起こるのは、私たち自身がそれにほとんど気づいていない時だと思います。私たちが、ただ裁かれずに
そこにいる、そのことが和解の働きとなってゆくのです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)