なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(483)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(483)復刻版を掲載します。2008年12月のものです。


      黙想と祈りの夕べ通信(483[-12]2008・12・21発行)復刻版


 12月17日の黙想と祈りの夕べは2人の出席者でした。結構強い雨の降っている夜でした。この日は特に発

言はなく、二人でしばらく話し合いました。

 いよいよ今年もクリスマスがやってきます。クリスマスってどのような出来事なのでしょうか。マタイと

ルカの福音書のイエスの誕生物語によりますと、ローマ皇帝アウグストやユダヤヘロデ大王という権力者

と対比されるようにして、権力とは程遠い、ベツレヘムの家畜小屋におけるイエスの誕生が描かれています。

しかも東方の博士たちによりますと、イエスユダヤの新しい王として誕生したというのです。イエスの誕

生の時の社会状況について詳しくは分かりませんが、大きな転換期の時ではなかったかと思われます。ちょ

うど現在のように。政治と宗教が分離され、近代社会がヨーロッパに成立し、資本主義社会を形成して、そ

れが世界中に拡大して現在に至っているわけですが、その近代社会の行き詰まりが現代ではないでしょうか。

一時期パラダイムの転換ということがよく言われたことがあります。物の考え方、制度、社会の構造すべて、

今までのものの延長線にではなく、全く新しいものが生まれなければ、現在の人間や社会が生み出す矛盾を

克服する道がないというのです。確かにそういうことが言えるのではないでしょうか。ですから、今考えな

ければならないことは、対症療法的に事に当るのではなく、事柄をよく見極めて、どのように未来を展望で

きるのかを、とことん考え抜くことではないでしょうか。

 現在の世界的な行き詰まり現象の根底には資本(お金)の問題があるように思われます。今日のようなグ

ローバルな世界が生まれることになったのも、資本のもつ普遍性にあるでしょう。お金の力は世界共通だか

らです。資本の普遍性によらないで、グローバルな世界が出現するとすれば、一神教による世界制覇か、国

際連合の力が諸国家や諸民族に勝る場合以外には考えられません。国民国家や民族の相違がなお顕在化して

いる現代にあって、世界がグローバル化しているのは、資本の力が圧倒的に強い現状があるからです。しか

も資本はそもそも虚構です。物々交換ならば、お互いに物がなければ交換は成り立ちませんが、貨幣はその

貨幣を発行している国の力と信用の上に成り立っていますから、たとえ物がなくても大量に発行することが

できます。日本の国債なども、今までは経済大国日本の信用によって大量に発行されてきました。そのため

に日本の国は大量の借金を抱えているわけです。そのようにしてバブルな社会に現代の世界はなっているの

です。ですから、アメリカの金融破綻によってはじまった現在の世界的な金融不安を資本の論理によって解

決しようとしても、根本的な解決には至らないでしょう。問題の解決を先送りするだけです。問題は過剰な

資本の論理によって動いている世界の在り様です。そのような現代の世界の行き詰まりは、それこそパラダ

イムの転換による以外に、未来を紡ぐ社会を造り出すことはできないのではないでしょうか。

 私は、イエスが「神と富とに兼ね仕えることはできない」と断言したことの意味を考えています。キリス

ト教は「資本主義とプロテスタンティズムの倫理」以来の近代社会において、神と富とに兼ね仕えてきたの

ではないでしょうか。資本の問題を考えるときに、同時に近代のキリスト教の問題を考える必要があるよう

に思えます。この閉塞した今日の世界の問題を打開するためには、私にはこのことが不可欠に思えてなりま

せん。
         

         「すべての人に与えられる体験」  12月21日


 「私は時が満ちるという体験はしたことがありません。私はごく普通の人間で、神秘家ではありません」

と言う人がいます。確かに神の存在を独特の仕方で体験し、それによって神の存在を世に宣べ伝える独特の

使命を持った人はいます。けれども、私たちの誰もが~学識があろうと無学であろうと、金持ちだろうと貧

乏だろうと、人々の目に止まろうと隠れていようと~時が満ちて神を見る恵みをいただけるのです。この神

秘的な体験は、少数の例外的な人々のためにとって置かれているわけではありません。神はその贈り物を、

神の子どもたちすべてに、何とかして与えようとしておられます。

 けれども、私たちはその贈り物を望まなければなりません。注意深く、心の目を醒ましていなければなり

ません。ある人々には、時が満ちる体験は劇的にやって来ます。聖パウロにとっては、ダマスコへの途上で

地面に倒れた時がそうでした(使徒言行録9:3-4)。けれども、私たちの内のある人々には、ささやきの声

や背中にそっと触れる優しいその風のようにやって来ます(列王記上19:12)。神は私たちすべてを愛して

おられます。そして、それぞれに最も相応しい仕方で、私たちみんながそれを身をもって知るようにと望ん

でおられます。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)