なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ペンテコステ礼拝説教

         ペンテコステ礼拝説教、ヨエル2:23-3:2,マタイ12:14-21、
                           

・今日はペンテコステ聖霊降臨日の礼拝です。イエスは十字架にかかられ、殺され、葬られ、聖書によりますと三日目に復活したと言われています。その後弟子たちや多くの人たちが、復活したイエスと出会ったという体験を経て、イエスの復活後50日目になるペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降って、教会が誕生したと言われています。今年はその日が今日の礼拝(5月19日)になるわけです。

・「聖霊が降る」ということはどういうことなのでしょうか。この頃は、スピリチュアルとか、霊性とかが、はやりのようによく聞く言葉になっています。科学主義、合理主義でやってきたヨーロッパからはじまって全世界に広がった近代主義の行き詰まりにぶつかっている現代人である私たちです。その行き詰まりの中で、私たち自身合理主義的な思考に疲れて、何も考えないですむ古代・中世の神話的な非合理な世界、妖精が生きているような霊的な世界に引きつけられているのかも知れません。けれども、聖書で「聖霊が降る」ということは、そのようなこととは違うように思います。

・今日は、このマタイによる福音書12章14~21節から、特に18節の「この僕にわたしの霊を授ける」にという点に焦点を当てて、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

・マタイによる福音書では、この箇所の前には、安息日におけるイエスの癒しをめぐるファリサイ人とイエスの論争が記されています(12:1-14)。その最後に当たります12章14節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにイエスを殺そうかと相談した」と記されています。

・イエスと、病者の癒しをはじめイエスによって始まった運動は、当時のユダヤ社会にあって、自他共に民衆の指導者と認められていたファリサイ派の人々にとっては、根本的に受けいれられないものがあったようです。「イエスを殺そうかと相談」をはじめというわけですから、ファリサイ派の人々はイエスに対する激しい憎悪をもち、こんな人は自分たちの中にはいて欲しくないというイエスに対する排除の思いが強かったのでは、と思います。こういう他者に対して、その人を殺したいと思うほど強い憎悪と排除は何故に起こるものなのでしょうか。

・現代におきましても、このファリサイ人の、相手を殺してもかまわないというところまで思いつめてしまう激しい憎しみの感情から生まれる行動は、私たちの中にもあることを、私たちは知らされています。今の世界ではテロ行為が起こっています。アフガニスタンイラクでは、今も自爆するイスラムの人が、自らの死をもって米兵はじめアメリカに協力する人々を巻き添えにすることを続けています。そのような本来はあってはならない悲惨な行為が生まれてくる原因は複雑でしょうが、アメリカを中心とする先進国といわれる国々の経済的搾取によるイスラム世界の貧困の問題が根底にあることは認めざるを得ません。そして長い対立の中で、自分たちの肉親や仲間が不条理な死を死んでいったことへの悲しみと怒りが、過激な行動に人を追いやってゆくのでしょう。

・イエスは、ファリサイ派の人々が自分を殺そうとしていることを知って、「そこを立ち去った」と言います。ウルリッヒ・ルツは「イエスはファリサイ人たちの計画を見抜く。彼は彼らの陰謀のなぶり者にはならない。それゆえ、彼が退却するということは、逃走(逃げること)ではなく、不安の徴でもない」と言っています。イエスはそこを立ち去られたが、「大勢の群衆が従った」と言います。また、「イエスは皆の病気を癒した」と言います。退却しても、イエスはやるべきことはやっているわけです。ただ、ファリサイ人の陰謀を知って、いたずらな対立は避けたということでしょうか。避けられる対立は避けたが、自分のやるべきことは、粛々とやっていかれたということでしょうか。

・私は、このようなイエスの姿に、人間としての軸の確かさを感じます。コマがぶれないで、一箇所にとまっているかのようにまわり続けるのは、軸がしっかりしているからです。軸が定まっていないコマは、すぐとまってしまったり、あっちにいったり、こっちにきたりして定まりません。私は自分の人間としての軸を、信仰によって与えられていると思っています。イエスを通した神との関わりの中で、聖書を読み、神と対話し、祈ることによって、神との関わりにある、赦され、愛されてある自分を知らされます。その神にどう応えていくかということで、自分の生活の方向が定まり、迷いが少なくなります。イエスはその軸がしっかりしていて、ほとんどぶれなかった人ではないかと思います。イエスを「まことの人」と言うのは、神との絶対的な関係によって、イエスはまことの神によって生かされているまことの人だからです。

・16節をみますと、イエスは従ってきた群衆や弟子たちに「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」とあります。ここにも、いたずらな対立を避けるイエスが示されているのかもしれません。

・このようなイエスについて、マタイによる福音書の著者は、第二イザヤの「苦難の僕」の預言が成就したと考えました。18節から21節は、イザヤ書42章1-4節からの引用です。ちなみにマタイ福音書の一つの特徴は、「預言の成就」という考え方にあります。17節の「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」が、それに当たります。旧約聖書の預言がイエスにおいて実現成就したという信仰です。

・マタイはイエスを「インマヌエル」として理解しました。インマヌエル(「神われらと共に」)としてのイエスの物語をマタイはその福音書で書いているのです。そして最後に、弟子たちを派遣しますが、その時イエスはこう語っています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らは父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18-20)。ここにも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われています。

・イエスに従っていく者は、イエスの歩まれる確かな道、インマヌエル(神われらと共に)の道を見い出すことができます。それは人間としての軸がしっかりと定まった道です。この18節から21節のイザヤ書42:1-4からの引用も、ファリサイ人のイエス殺害の陰謀という文脈において、イエスの歩まれる確かな道が暗示されているのです。

ウルリッヒ・ルツはこのように語っています。「一つのイメージで表現すれば、イスラエルにおける彼(イエス)の道の途上で次第に敵視され脅かされるイエスの物語は、厚い雲の層に包まれて悪天候の中をさまよい歩くことに似ている。われわれのテキストは、一瞬の間雲の層を吹き飛ばし、それによって天が、つまり、事柄に即して言えば、イエス服従の悲しい物語の真の見通しが、再び見えるようになる。その時にのみ、それは理解できるようになる。なぜなら、天について知っている者だけが、世界を理解する。神の未来を知っている者だけが、現在を理解する。そのことを、とりわけ18、20c-21節が暗示する」

・18、20c-21節を岩波訳で読みます。「見よ、私の選んだわが僕、/わが愛する者、わが心にかなった者。/私は、わが霊を彼の上に置こう、/彼は、異邦人たちにさばきを告げるであろう。/・・・・彼がそのさばきを勝利に導くまでは。/そして異邦人たちは、彼の名に望みを置くであろう」。

・新共同訳聖書では「さばき」が「正義」と訳されています。原語は「さばき」とか「判決」を意味する語が使われています。神のさばきは正義の確立であり、真の救済であり解放であります。ですから本田哲郎さんは「さばき」を「解放」と訳しています。「異邦人」を「世の民」と訳しています。

・本田哲郎訳ですと、「見よ、わたしのしもべ、わたしの選んだ者。/心にかなうわたしの大切な人。/わたしのしもべに、わたしの霊をさずけ、/かれは世の民に解放を知らせる。/・・・・こうして解放を勝利にまでみちびく。/世の民はこのしもべに望みをかける」。

・「イエスの物語は、雲の層の下で繰り広げられる限りでは、『穏和さ』、憐れみ、無暴力、および愛の物語である。・・・そのことを19-20bが暗示」しています。

・19-20b、岩波訳で「彼は争わず。叫ばず、/通りで彼の声を聞く者は、一人もいないであろう。/彼は、傷つけられた葦を砕くことなく、/燃え残る(燈火の)芯を、消すこともないであろう」。

・このようなイエスという方こそ、神が「私は、わが霊を彼の上に置こう」と言われた方なのです。とすれば、神の霊、聖霊が注がれるということは、このようなイエスを通して私たちの中で現実的になり、私たちの希望となった、神の解放の働きに与るということではないでしょうか。

・この神の働きに参与して生きることは、ウルリッヒが言っているように、イエスがその生涯の歩みに於いて、次第にファリサイ人をはじめ特に権力者の側から敵視され脅かされていったように、「厚い雲の層に包まれて悪天候の中をさまよい歩くことに似ている」と言えるかも知れません。しかし、「聖霊を注がれている」者、即ち「天について知っている者だけが、世界を理解する。神の未来を知っている者だけが、現在を理解する」(ウルリッヒ)のです。

・神の霊を授けられたイエスこそ、「かれは世の民に解放を知らせる。/・・・・こうして解放を勝利にまでみちびく。/世の民はこのしもべに望みをかける」(本田)べき方であるということを、このペンテコステの時にもう一度想い起して、私たち一人一人にも聖霊が与えられて、イエスに従う歩みに導かれたいと願います。