なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(110)

          船越通信癸隠隠亜 。横娃隠廓5月26日        

・5月19日(日)はペンテコステの礼拝でした。クリスマスやイースターと共にペンテコステキリスト教の三大祝祭日ですが、三つの中でペンテコステは教会内では知られていても、一般には余りよく知られていません。今回も間際になってしまいましたが、一週間前くらいに教会員以外の方25名くらいに案内を出しましたが、クリスマスやイースターのようには礼拝に来られませんでした。この日の礼拝には聖餐式がありました。準備する方が新しい役員の方だったこともあって、聖餐のパンが何時もより大きく、口の中でパンをかみ砕いて食べ、文字通り命の糧をいただくという感じがしました。礼拝後皆さんとお茶を飲み、懇談の時を持ちました。この日は先日召されれて船越教会で葬儀式をした故A・MさんとA・Sさんのご子息がはじめて礼拝に出席しました。懇談の時にも一緒にお茶を飲みながら、親しく語り合うことができました。うれしいことです。

・この日はみなさんと散会した後、しばらく船越教会に残り、その日の夜にありました第56回かながわ明日の教団を考える会の準備をしました。また、その日はかながわ明日の教団を考える会の前に、午後5時から1時間ほど私の裁判支援会の神奈川世話人会と事務局会の打ち合わせがありました。どちらも紅葉坂教会でありましたので、午後3時半頃船越教会を連れ合いと一緒に出て、紅葉坂教会に向かいました。裁判支援会の方は、6月3日の第一回控訴審とその後の報告会について、期日が迫りましたので、いろいろと打ち合わせをしました。第一回控訴審については、60頁に及ぶ控訴理由書と証拠書類は既に裁判所に提出してあります。その外に一審判決についての「意見書」を九州のAさんに書いていただきましたが、裁判所に提出するための体裁を整えているところであるといことを報告しました。後日22日にF弁護士を通してAさんの「意見書」を裁判所に提出しました。後は第一回控訴審での原告と代理人の意見陳述を裁判所の方に弁護士を通して申し入れていましたが、24日にO弁護士の方から連絡があり、裁判所からは代理人の意見陳述のみ認められたということです。ですから、私の意見陳述はないことになりましたので、後は裁判当日を迎えるだけです。報告会の方の準備も大体出来ました。報告会の場所が、今回は一審の時とは違いますので、事務局会では裁判所からの移動等の確認をしました。

・かながわ明日の教団を考える会では、先ずこれまでに終わっている各地区の教区総会の報告を分かる限りにおいて分かち合いました。続いて6月29日開催の第130回神奈川教区総会への「北村慈郎教師の『免職』撤回を求め、教団内に聖餐の在り方について慎重かつ十分な議論をする場の設置を求める件」という教区総会声明を議員提案議案として出すことを決めました。提案者はSさんです。その他は従軍慰安婦についての橋下発言への抗議や安部政権の憲法改訂への動きについて反対声明なども議案にする必要があるのではないかという話が出て、それぞれに働きかけることにしました。次に教団宣教研究所から出た「改訂宣教基礎理論第一次草案」について学ぶ会を7月28日(日)午後6時から紅葉坂教会で、発題者をIさんにお願いして行なうことになりました。この「改訂宣教基礎理論第一次草案」は、神奈川教区では常置委員会で配布されているだけです。かながわ明日の教団を考える会の案内を送っている方々には配布してありますが、7月28日の会は公開にして、神奈川教区の全教会に案内と共に資料として配布するようにすることにしました。次に5月の連休中に行なわれましたリフレッショ@かながわの報告と今後の支援について話し合いました。アンケートに答えてくださったいわき市の家族の手紙を読みますと、この保養プログラムの継続に私たちは力を注いでいかなければならないと思いました。その他諸報告があって、今回も午後8時過ぎに会を終えました。

・23日(木)午後7時半から聖書研究会がありました。出席者は私を含めて4名です。上村静『旧約聖書新約聖書』p.292~p.325を扱いました。いわゆる第二パウロ書簡、牧会書簡、公同書簡ヨハネ文書、ヨハネ黙示録の部分です。例えばヨハネの手紙についての所で、上村さんは、「教会分裂という事態に直面して、著者は相互愛を強調する。・・・それは『愛』という言葉で語られているが、『愛』を体現することはない ― 後のキリスト教は、非キリスト教徒の征服・支配とキリスト教内部の『異端』の排斥をその歴史とすることになる。それが『愛の宗教』の『愛』の形である」(p.317)と言う。こういう物言いが、上村さんの本の面白さになっています。ただ、その物言いをする上村さんの立ち位置は、私には聖書を内在的に批判するというよりも、聖書の諸文書を外から見ているように思えてなりません。

・24日(金)には、船越教会の礼拝にもいらしたことのある聴覚障がい者のOさんが、前もって連絡をいただき、Tさんと一緒に話しに来ました。Oさんからいくつか質問を受け、それに私が答えるという形で約2時間近く筆談を入れながら話をしました。Oさんの問いは、信仰者にとって主イエスとの直接的な交わりと、聖書を神の言葉として素朴に読むことが大切で、組織制度としての教会や信仰告白・信条・教義のようなものは必要なのだろうかというものです。船越教会では、テーマ話し合いの時にも、教会が信仰者にとって阻害要因にならないような教会の在り方を模索していくことを確認しています。教会が信仰者の阻害要因になる場合、その教会には「護教」の姿勢が強いのでは、という話を私はしました。また、信仰告白・信条・教義は、歴史的な教会がその時代その地域の中で聖書の内容を自分たちの言葉で言い表したもので、必ずしも聖書と対立するものではないという話をしました。しかし、そういう教会の神学的な蓄積が逆に重荷に感じられて、聖書そのものを大切にする聖書主義の立場も、くりかえし教会の歴史に現われたこともお話ししました。Oさんからは、G・Bという宣教師の方の日本での働きについて紹介されました。文書をいただき、後で読んでみました。この方は、牧師制度も会員制度も献金制度もない集会を全国に展開しているようです。その信仰はファンダメンタルのようです。私とは聖書理解が違うように思いますが、集会の在り方には引き付けられるものがあるように思えました。