なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(98)

           船越通信癸坑検 。横娃隠廓3月3日          

・24日の日曜日は、礼拝後船越教会のバザー(フリーマーケット)が、午後1時から4時まで行われました。この日午後4時半から蒔田教会で教区のオリエンテーション(テーマ「聖餐について」)がありましたので、私はオリエンテーション委員会の委員長としてどうしても出席しなければならず、午後3時少し前にMさんの車に同乗させてもらい船越教会を出て蒔田教会に向かいました。ですからフリーマーケットの最後までいることはできませんでした。教会のメンバー以外でフリーマーケットに来てくれた方はそう多くはありませんでしたが、普段はなかなか出来ないゆったりとした交流の時を与えられたように思います。

・「聖餐について」のオリエンテーションは、陪餐出来る人が洗礼を受けた人だけというクローズドの聖餐と、洗礼を受けていない人も招かれるオープンの聖餐について、立場の異なる発題者に講演してもらい、それをめぐって協議の時を持ちました。神奈川教区は教区総会決議の議案として教団総会に、「教団に聖餐の論議をする場を設定する議案」を出していますし、教区の形成基本方針にも、立場の違いを簡単に切り捨てずに忍耐強く対話していくことが掲げられていますので、今回のオリエンテーションは、教区の教会に他教区から転任してきた新任教師、准允・按手志願者、教師検定試験受験者等を対象にして行われている通常のオリエンテーションを、オリエンテーション委員会主催、常置委員会共催という形で公開にして誰でも参加できるようにしました。そのために70名を越える参加者があり、皆熱心に二人の立場の違う発題者の講演に耳を傾け、協議の時も率直な質問や意見が出され、ただお互いの立場を否定し合うのではなく、それぞれの言い分を聞き、理解を深めることが少しはできたのではないかと思います。お二人の講演をお聞きして、私自身としては、オープンの聖餐を根拠づけるナザレのイエスの愛餐との繋がりを強調する考えと、十字架と復活の主キリストの現臨の聖性とその畏れを強調するクローズドの考えとが、二分化せざるをえないものなのかどうか、検討の余地があるように思いました。この問題は、イエスかキリストか、歴史か信仰か、ナザレのイエスか教会かという形で二分化して捉えられがちです。けれども、キリストを含まないイエスがあるのか、イエスを含まないキリストがあるのか、歴史を含まない信仰があるのか、信仰を含まない歴史理解が聖書の歴史理解なのか、ナザレのイエスの出来事が教会を生み出したのですから、ナザレのイエスと関係のない教会などあり得るのかということです。聖書から考えて、イエスの歴史性から離れた観念化・抽象化したキリストの現臨などあり得るのかと思うのです。そういうものがあるとしたら、人間が希求する幻想に過ぎないように思います。ただ人間はそのような幻想にすがりつき、安心していたいという願望ももっているやっかいな存在であることも事実です。今の教団執行部はこのような聖餐についての話し合いは否定しますが、神奈川教区ではこのような話し合いを続けていければと思っています。

・25日(月)には、私の裁判の一審での判決があり、私の訴えた三つの請求すべてが却下されてしまいました。私の裁判は日本基督教団という宗教教団内部の問題が訴えの基盤になっていますので、司法の介入がどこまで可能かという問題は、最初から考えていました。裁判所は、宗教上の教義、信仰の内容に関わる案件には関与しないという「裁判所法3条」に規制されていますので、私の戒規免職処分が聖餐という宗教上の教義、信仰の問題であれば、最初から裁判所は判断をしないことは解っていました。私の訴えは、聖餐の問題が私の戒規免職処分の契機にはなっていたとしても、その後の教団における戒規免職処分の手続きが余りにも不当なので、その手続きの瑕疵を問題にして、裁判所の判断を求めました。その手続きの瑕疵については、直接宗教的な教義、信仰とは関わりのない民主的な規則に則った決定かどうかということだからです。私の訴えは、正教師の地位確認と年金減額の不当性と損害賠償です。裁判所は、手続きの問題には入らず、教団における正教師の地位は宗教的な地位であって、権利義務が派生する社会的、法律的な地位ではないと、教団側の主張をそのまま取り入れた判断をしました。教団では(正)教師資格がある者が個教会の招聘を受けて、個教会の主任担任教師に教区の承認推薦を経て教団が同意して就任します。そこで主任担任教師は個教会から謝儀や牧師館の提供を受け、宗教法人の個教会の代表役員に就任します。これらは正教師である個人と個教会との任意契約であって、直接教団とは関係ないと教団側は主張しました。従って、正教師の地位はその教師の生活権とは直接結びつくものではなく、宗教的な地位に過ぎないというのです。裁判所はこの教団の主張をほぼそのまま取り入れました。また、戒規はキリスト教における訓練規定であって、宗教的な教義と密接不可分で通常の規則による懲戒免職とは違い、悔改めて復帰する道を用意しているという教団側の主張も、裁判所はほぼそのまま取り入れています。年金減額も、正教師の地位確認とは違い、これは法律上の争訟に値する案件だが、戒規という宗教的な教義による処分に関わるものなので、裁判所の判断が入る余地ないとしています。このように裁判所は、裁判所法3条を盾に私の三つの請求訴えをすべて却下しました。これでは、宗教教団内部における権利侵害を司法に訴えることができなくなり、宗教教団内部の不正が糺される道がなくなります。

・この裁判の後にありました報告集会・支援会総会では、この判決を不当として控訴すると共に、教団内における運動をさらに強化していくこと、また、私と同じような問題が教団内に起こらないとも限りませんので、そのような場合の支援体制も考えて行かなければならないことを確認しました。

・私の裁判が行われた東京地裁103号法廷は傍聴席98名ですが、5,6名の被告教団側からの傍聴者以外はすべて私の支援者の方々で埋まり、30名強の方々が傍聴席に入れませんでした。判決があった一瞬は皆皆呆然としていましたが、気を取り直して傍聴席を出て報告集会・支援会総会の行われる会場に移動しました。報告集会・支援会総会が終わる頃には皆元気になって、今後の取り組みを確認して散会しました。

・26日(火)は鶴巻から横須賀の路上生活者のパトロールに参加しました。