なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

キリスト新聞記事(二審判決・報告集会)

 昨日の私のブログ「黙想と祈りの夕べ通信(232)復刻版」の前書きで、キリスト新聞記事の

石橋教団議長のコメントについて批判しました。どんなコメントかと言えば、下記の「キリスト新

聞記事」の通りです。

 残念ながら石橋さんのコメントからは、私には何も響くものがありません。強いて言えば、何と

も悲しい気持にさせられます。

 裁判については、最高裁に上告申立及び上告受理申立を弁護士を通して出しました。8月下旬に

発行・発送予定の通信第8号に二審判決に対する弁護士のコメントを掲載します。その中に、上告

申立と上告受理申立の違いの説明があります。上告は憲法判断、上告受理は判例判断になるという

ことです。

 私の裁判にある種の普遍的な意味があるとすれば、宗教集団やさまざまな組織集団内における不

当な権利侵害事件に司法の救済の手が入るかどうかという一点にあると思われます。一審、二審と

もその判決は、実体審理に入らず門前払いをしています。私の問題は、本質的な争点が宗教上の教

義信仰の内容に関わるので、裁判所としては審理判断ができないというわけです。一審、二審の判

決を読む限り、私には裁判所が判断を避けて、私の訴えを宗教的な教義・信仰の内容に関わる方向

で相当強引に解釈しているとしか思えません。例えば、私たちが主張しているように、手続き上の

瑕疵に非があるとして、裁判所が私の訴えを認めて、正教師の地位確認や年金減額決定の無効確認

をした場合、教団側は、司法による政教分離原則や宗教集団の自立決定権の侵害というキャンペー

ンを張るでしょう。裁判所はそれにきちっと対応しなければなりません。そういうリスクを受けと

めた上で、司法が宗教集団内の不当行為による人権侵害者の救済に手を出すかどうかが問われてい

るのです。もし日本の司法が、憲法で保障されてている市民一人一人の基本的人権を守る、司法本

来の役割を果たす場であれば、私の訴訟のようなものでも、実体審理には入ると思います。実体審

理をした上で却下もあり得ますが。ある方が、私に対して、司法が本来の在り方をとるように、司

法を教育するつもりで裁判を闘ってもらいたい、と言われたことがあります。最近、そういう側面

も私の裁判にはあるのかも知れないと思っております。



      キリスト新聞(第3278号、2013年7月27日)記事(1頁)

 「東京高裁 北村慈郎氏の控訴棄却・教義・信仰に立ち入らず」

 未受洗者への配餐を理由に日本基督教団(山北宣久総会議長・当時)から免職の戒規処分を受け

た北村慈郎氏(前紅葉坂教会牧師)が、正教師の地位確認および1千万円の慰謝料などを求めて提

訴した控訴審判決で、東京高裁(福田剛久裁判長)は7月10日、控訴人側の訴えをいずれも棄却し

た。

 判決は一審を基本的に踏襲し、「正教師の地位が法律的な権利、義務を包含しない宗教上の地位

であることは明らか」であり、いずれの訴えも「教義、信仰の内容に立ち入って審理、判断するこ

とが避けられ」ず、「不適法」と結論付けた。

 控訴人が主張した「謝儀受給権」「牧師館等に居住し、賃料相当額の保障を受ける権利」「教会

の代表役員等の地位に就任する権限」については、教団とは別法人である教会との関係における地

位であるとの判断を下した。

 弁護団は「教団内でどんな戒規執行が行なわれても、司法による救済の道はないということ」と

批判。控訴人側は即日上告を決めた。

 判決後の報告集会で北村氏を「支援する会」代表世話人の関田寛雄氏(神奈川教区巡回教師)

は、「教団は合同教会として画一化されてはならない。多様性こそ豊かな福音の実り」と主張。

「私たちは敗者として説を曲げることなく、歴史を導きたもう主を信じ、情理を尽くして真理を謙

虚に語り続けなければならない。くれぐれもかつての誤りのように、一般信徒の方々に誤解を与え

るような激しい行動は慎んでいただきたい。新しい荒野の40年を歩もうではないか」と呼びかけ

た。

 控訴人の北村氏は提訴の理由について改めて説明し、「私の権利回復が目的ではあったが、違っ

た意見を排除していくという教団の現状を危惧している。最高裁の結審後、もし教団側が攻勢を強

めてきたとしても、言うべきことは言うという姿勢を貫きたい。実質的には、これからの動きが問

われる」と述べ、「この判決によって、現在までの執行部の聖餐式に関する考え方やわたしへの戒

規免職処分の正当性が認められたということはない」と強調した。

 日基教団議長の石橋秀雄氏は本紙の取材に対し、「主の主権のもとにある教会法を無視し、この

世の権威である裁判になお訴えて、教師の地位に関する権利主張をなすことは理解できない」と

し、「教団信仰告白で『教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐と

の聖礼典を執り行ひ』と福音主義教会の信仰が告白されている」と指摘。「洗礼から聖餐への順序

を変えることはできない。北村氏は未受洗者への配餐を止め、悔い改めて教団教師に復帰されるこ

とを心から祈り、願っている」とコメントした。