なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

福音と世界5月号から

 福音と世界5月号に関田寛雄牧師と私の文章による「北村裁判一審『却下』によせて」が掲載さ

れました。福音と世界を読んでおられない方もあるかと思いますので、ここに転載させていただき

ます。

 「牧師を免職する事で聖餐のサクラメント性は保証されるか」   関田寛雄

一、 なぜ控訴するか

 北村慈郎牧師の教団内における身分保証を求める提訴は却下されました。北村牧師と共に支援する会は控訴する事に決定いたしました。その理由については広くキリスト教会内外の方々に理解を求めたいと思います。今回の裁判について教団議長は「本来教団内で解決していくべき問題を世俗法に訴えたことは、『信教の自由と自律』を脅かす暴挙である」(クリスチャン新聞)と述べておられます。私たちは「本来教団内で解決していく事をどんなに望んだことでしょう。否、今もその事をこそ望んでいます。しかし当事者北村牧師の意見も聴取する事なく、非公式な、記録も採らない会議での発言を理由に、慎重な対話のプロセズを無視して、教団執行部は諸委員会の手続きを重ねて免職を決定しました。宗教団体内の紛争における「自律権」を主張なさるのであれば、それにふさわしい当事者との誠意ある対話がなされるべきではなかったでしょうか。この免職は当事者不在の処分です。しかも戒規は「愛をもって悔改めを求める教会の訓練」だと言われるならば、ひとりの、四十余年に及ぶ誠実な牧会を続けて来た教職を教団から排除し生活権そのものを奪う処分がどうしてなされ得たのでしょうか。北村牧師は万策尽きて裁判に訴えざるを得なかったのです。私たちは教団の「宗教性」を問うつもりはありません。唯、特定宗教団体が陥っている誤った「道義性」を問うのです。これは人権問題です。しかも私見ですが、教団紛争をめぐる「荒野の四〇年」の評価の問題に絡まる、かなりの政治的判断に基づく処分と思わざるを得ません。日本基督教団という特定宗教団体の道義的体質、即ち「上意下達」の権力的体質をもって構成員の生活権を奪うという、非人間的な処分に対して声を挙げざるを得ない、という事が、この度の控訴の理由です。
 控訴審の判決がどのようになされるかはともかく、「信教の自由と人権の保障」という国家の民主的体質が問われる事になるのでありましょう。

二、 聖餐のサクラメント性を尊重すればこそ

教団神奈川教区総会決議として聖餐についての論議を教団内に正式に設定する事を求め
て二回、教団総会に要請致しましたが、全く考慮されませんでした。かつて信仰職制委員会で聖餐の意義及びその執行方法について永年継続して論議が行われて来ましたが、最近理由もなくそれは停止されています。言うまでもなくキリスト教会において最も重要な営みは説教と聖礼典であります。教団成立以来七十二年になりますが、三十余派の諸教派が天皇制国家の要求の下一挙に合同して以来、サクラメントの問題は重要な主題として論議されて参りました。非サクラメントの教派も含めて教団が教会であろうとする限りこの論議は尽きる事はありません。「常に改革される教会」という宗教改革の伝統に従ってこそその論議は続けられるべきでありましょう。しかし最近は合同教会の域を脱して信仰告白にふさわしい「聖なる公同の教会」になるべきであるとの動きが教団内に強く打ちだされるようになりました。
しかし「聖なる公同の教会」は私どもの信ずべき教会ではあっても、歴史的存在として
の教会の「所与」とはなり得ないものではないでしょうか。教会史の変遷を見ても一致を強権的に求めた教会は必ず分裂、セクト化しました。むしろ多様な教派的伝統の賜物を生かし合う、「多様性における一致」(神奈川教区総会の問安の際の前議長山北氏の発言)であるべきだと思います。画一化を求めるのでなく、聖餐理解とその執行についての論議の場を教団内に設定して頂きたい。重ねて申します。それは聖餐のサクラメント性の尊重と深化のためでこそあれ、単なる「合理化」「世俗化」では決してありません。そしてその関連で北村牧師の免職処分を一日も早く撤回して頂きたいと思います。教団執行部の皆様、あなたがたは何を恐れていらっしゃるのでしょうか。

三 教団を愛する者として

かつて天皇制国家の圧力の下で教団は旧六部・九部の教職たちを免職にしました。その
痛ましい経過を知る者として今尚、申し訳なかったと思っております。その罪を思えばこそ、北村牧師の免職という処分はたとえ聖餐理解の相違があったとしても、教団のなすべき事はなかったと思います。私たちの教団は、「戦責告白」において教会の罪を主と民衆の前に告白し悔改めました。主の赦しと憐れみによってのみ立つ事を許されているこの教団を私は心から愛しています。だからこそ主の恵みに応える教団でありたいと願いつつ、教団執行部の方々に対話を求めているのです。

「一審判決『却下』を受けて」           原告 北村慈郎
 
 日本基督教団(以下教団)による私の戒規免職処分に対して、その撤回の道が教団内においては長期的な運動としてはあっても、審判委員会の決定が教団の中では最終的決定になりますので、私は司法の判断を求めて2011年11月に東京地裁に提訴しました。訴えの請求は、\偽技佞箸靴討涼楼未魍稜А↓教師退職年金給付額減額決定無効確認、0崋嬶狙舛了阿弔任后E豕?郎曚任竜遒2月25日一審判決では、残念ながら私の訴えは三つとも、この訴えは法律上の争訟に当らないと、実質審理に入ることなく入口で却下されました。私は直ちに控訴しました。

 一審判決文を読んで驚いたことが二つあります。一つは、各個教会から招聘を受けて教会担任教師になり、謝義を受け、牧師館に住むことが出来るなどという教師の生活権といってもよい社会生活上の権利・義務に関わる法律的な地位は、「被告とは別個の法主体である紅葉坂教会との関係における地位であり、被告との関係において、正教師の地位であることを基礎づけるものとはならない」という判断です。この主張は教団自体が行ったもので、それを裁判所が認めたことになります。ということは、私が戒規免職処分を教団から受けて、正教師の地位が剥奪され、紅葉坂教会の牧師であることが出来なくなり、生活権を奪われても、教団は全く関係ないということなのでしょうか。正教師の地位が宗教的な地位であることは確かなのですが、正教師である個人は一市民として社会生活を送っており、正教師であるがゆえに各個教会から招聘を受け、謝儀等を得て社会生活が成り立っているわけです。ですから、私には教団の主張に基づく裁判所の判断が良く分かりません。

 もう一つは、戒規は悔い改めを求める教義・信仰による教会の訓練規定であって、単なる経済的又は市民的社会事象とは全く異質のものであるという教団の主張を、裁判所がそのまま受け入れて判断していることです。だから、「被告の教義、信仰の内容に立ち入って審理、判断することが避けられない」ので、「本件訴訟の本質的争点である本件免職処分の効力の有無については、裁判所の審理判断が許されない」というのです。これでは、教団によって行われる戒規免職処分は、どんなに不当なものであっても、そもそも裁判所に訴えて是正をはかることはではできないということになります。これが認められれば、現教団執行部は自分たちと異なる考え方をする教師を戒規免職処分にして好きなように排除できるということになります。そのようなことになれば、教団はカルト的宗教教団が持つ迷妄の虜になって自壊していく以外にありません。

 私は日本基督教団紅葉坂教会で洗礼を受け、教団教師となり、44年間四つの教会に仕えて伝道師、牧師として働いてきました。関田寛雄牧師ほどではありませんが、1941年の国家意思に基づく合同教会としての教団成立と教団の戦争協力、そして1967年の戦責告白を踏まえて、私なりに教団の信徒であり教師であることに責任を感じて歩んできました。ですから、私自身は、自分からは勿論戒規免職処分を受けたからと言って、教団を離れることは全く考えていません。最後まで教団との関わりの中でキリスト者としての歩みを全うしたいと願っています。また、聖餐という信仰上の問題で、異なる考え方の人間を戒規免職処分によって排除する現教団執行部の姿勢は容認できませんし、自らの信仰理解を絶対化する立場は、教団の歴史では戦後すぐに起きた会派問題で終わっていると思っています。その後の教団は、異なる立場の信仰理解をしている教会・信徒・教職が、お互いに対話を通して主にある一致をもとめていく形成途上の教会として歩んできたのではないでしょうか。この教団の姿勢は、エキュメニズムと連動して、日本における真の「公同教会」をめざすものではないかと、私は思っています。自らの信仰理解を絶対化する立場を貫くために、教団を合同教会から公同教会へと声高に主張している現教団執行部の姿勢は、教団の中では自己矛盾以外の何ものでもありません。

 従って私は、今後も裁判闘争と教団内運動の両面において、私の戒規免職処分撤回を勝ち取るために、最善を尽くしていきたいと思っています。志を同じくして下さる方はどうか今後もご支援をよろしくお願い致します。