キリスト新聞(2013年3月9日、第3261号)記事
「東京地裁 日基教団「免職」戒規訴訟 北村慈郎氏の主張退ける」
未受洗者への配餐を理由に日本基督教団(山北宣久総会議長・当時)から免職の戒規処分を受けた北村
慈郎氏(前紅葉坂教会牧師)が、正教師の地位確認および1千万円の慰謝料などを求めて提訴した裁判
で、東京地裁は2月25日、原告側の訴えをいずれも却下した。
判決の理由は、「正教師の地位は宗教上の地位であり、法律上の地位ではない」「戒規の係る手続きの
瑕疵の有無は、被告(日基教団)の教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することができない」
の2点。よって「不適法」であり、裁判所は審理できず、「却下を免れない」とした。原告側が、戒規免
職は正教師の地位(それに基づく牧師としての諸権利)を剥奪する「懲罰」行為だと訴えたのに対し、裁
判所は「戒規は懲罰ではなく悔改めを促すもの」という被告側の主張を採用して門前払いした形。
判決後世話人代表の関田寛雄氏(神奈川教区巡回教師)は、かつて赤岩栄牧師が共産党への入党を宣言
した際に教団の指導者らが幾度も対話を求めたことを例に、現執行部の姿勢を「上意下達」と批判し、
「合同教会であることの恵みを再確認したい。多様な証しが行われていい」と述べた。
弁護団は「こうした判例が定着してしまえば、実質上、教団執行部や教師委員会が意に沿わない教師を
自由に処分できる」と強い懸念を表明。北村宗一弁護士は「正教師がたとえ宗教上の地位であれ、社会生
活上の権利や義務について問題があれば、司法の判断を下せるのではないか」と疑義を呈した。
今回の判決を受けて、現総会議長の石橋秀雄氏(越谷教会牧師)は「戒規、免職はすべて教会法(教
憲・教規)に基づいてなされるものであり、裁判所の判断を求めるものではない。宗教団体で紛争が生じ
た場合、自律権が尊重されてきた。本来教団内で解決していくべき問題を世俗法に訴えたことは、『信教
の自由と自律』を脅かす暴挙であり、教団のみならず宗教団体をも冒涜する行為と言わざるを得ない」と
コメントを寄せている。
以上のキリスト新聞記事に対して、以下私の所感をキリスト新聞に投書しました(2013年3月16日、第3
262号に掲載)。
私の訴えに対する今回の一審「却下」の判決は大変残念です。直ちに控訴いたします。 私が日本基
督教団から戒規免職処分を受けたのは、洗礼を受けていない人にも陪餐をさせたということが理由とされ
ています。けれども、この聖餐の問題は、教団の歴史では、1990年代初めまで公式の教団の信仰職制委員
会においても継続協議となっていたものです。ところが、1995年ごろから、はっきりとは2002年の教団総
会で山北宣久さんが議長に選出されてから、教団内のグループである福音主義教会連合と連合長老会の一
部が教団のヘゲモニーを握るようになりました。その頃から、教団内において洗礼を受けていない人への
陪餐執行は教憲・教規違反であると声高に言われるようになりました。その流れの中で、2007年に教団常
議員であった私は、山北議長から、洗礼を受けていない人にも陪餐を可とする聖餐について記録もとらな
い協議ということで発題するように言われ、発題をしました。すると、それを言質にとられ、教師退任勧
告、議長による教師委員会への戒規免職申立てと続きました。2008年の教団総会で議長による戒規申立て
を無効とする議案が可決され、それで私の戒規免職問題は終わったのかと思いきや、その後教師の戒規申
立ての提訴者を教会役員会か教区の常置委員会としていた信仰職制委員会の先例答申をなし崩しにする諮
問が出て、信仰職制委員会も申立人は誰でもできるという答申を出しました。それに連動して教師委員会
では上記信仰職制委員会先例答申に基づいた戒規に関する内規を改訂して戒規の申立ては誰でも出来ると
し、申立人がなくとも教師委員会独自でも出来るとしました。この教師委員会の内規の改訂をどうして知
ったのか分かりませんが、その18日後に常議員の一人が申立人となって、教師委員会における私の戒規免
職決定に繋がって行きます。上告後の審判委員会による教団における最終決定も全く同じことでした。
私は教団における私へのこのような戒規免職処分のやり方は宗教団体である教団内におけるある種のパ
ワハラと考えて、現在のところ教団内部にはそれを正す道はないと判断し、司法に訴えました。もし教団
石橋議長が言うように、政教分離や宗教団体の自律権によって、教団内部の権力を持っている者たちが行
う不正を問うことができないとするならば、自浄能力を失った宗教集団は、カルト集団のように暗黒集団
になっていくでしょう。