なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(194)復刻版

 昨日は久しぶりにのんびりと過ごすことができました。鶴巻は、私のいるマンションから鶴巻ガーデン

シティひかりの街が伊勢原方面に続いています。200メートルほどでそのひかりの街は終わり、その先は

畑と田圃が広がっています。昨日はその田畑に自転車を走らせました。しばらく走ると田畑を横切って小

さな川が流れています。その川の土手がアジサイの道になっていて、ところどころにベンチが設置されて

います。そこから箱根方面を見渡しますと、一番左側に箱根連山が、右側に目を移していきますと、富士

山が山並みの後ろに上の四分の一くらい姿を現します。一番右側は大山になります。そのパノラマは180

度弱というところでしょうか。冬の晴れた日の仰望はなかなかのものです。昨日の富士はかすかに見える

程度でした。ただ新緑の季節を迎えようとしている山の緑は、芽吹いた多彩な薄緑で白く光っているとこ

ろもあり、命があふれているという感じでした。それこそ山が生まれ変わるというのでしょうか、なかな

かの風景でした。

 さて今日は「黙想と祈りの夕べ通信(194)」復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(194[-37]2003.6.15発行)復刻版

 先週教会で葬儀が行われました。召されたAさんは教会員の娘さんで54歳でした。3年前に大腸がんを

患い、一年後に肺へ転移し、その後肝臓から最後は脳にも転移して、今年3月末に一か月程入院し、4月29

日に退院して、その後召された6月2日まで自宅でのホスピスでした。お連れ合いが有給休暇をとり、娘さ

んは会社から介護休暇をとって、お二人が中心となって在宅ホスピスを支えました。Aさんは幸いに最後

まで厳しい痛みもなく、夫と娘の腕の中で安らかに死を迎えたということです。自宅が国立でしたが、30

数年前にAさんのお父さんの葬儀が行われた当教会で自分の葬儀もしてほしいという本人の強い希望によ

って、彼女の葬儀を教会ですることになりました。6月2日の午後自宅を出棺して、彼女の棺は教会に運ば

れてきました。火葬場の関係で前夜式は6月4日夜、葬儀式は6月5日の午後に行われましたので、2日夜か

ら彼女の棺は三夜教会の礼拝堂にありました。その間一人娘であるAさんのお子さんが棺のそばにずっと

ついていました。お母さんに手紙を書いているのだと、書き物をしながらです。私はこのAさんの葬儀に

牧師として関わりながら、人はどうしても死を迎えなければならないとすれば、愛する者から看取られな

がら静かに息を引き取ることが出来る人の幸を感じていました。いろいろな事情でなかなかそういう方は

いらっしゃいませんが、それだけに、愛する者を天上に送り、遺された家族の方々の寂しさを思わざるを

得ません。Aさんの年長のお母さんをはじめ夫や娘さんのことを覚えてお祈りいただければ幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。自分はこれまで障がい者のあるボランテ

ィアグループに関わってきた。そのグループが今度NPO法人をとり、事務所としてセンターを立ち上げ

て、公的な障がい者の介護支援費を受けられるようになった。ケースワーカーが障がいの程度を査定し、

それに従って支援費が支給されるのである。そのために私の場合のように、今までしてきたただ保母とい

うことでのボランティアでは支援費は受けることができないので、ホームヘルパーの資格を取る必要があ

る。法人の働きとしては、)問看護、介護支援、ボランティアになるが、ボランティアには支援費

は出ない。支援費をもらうには細かな決まりがあり、支援を受ける家族も働き手もそれを満たさなければ

ならない。確かに支援費をもらえば、介護を多く必要としている家族は経済的負担が楽になり、働き手も

今までより収入が増えるという利点はある。ただ制度に沿っていくと、かえって活動が狭まったり、不自

由になるということも起こる。私は今までのように自由に活動できるボランティアでいこうとしたが、問

題が出て来たので、センターを裏方で支えるようにと思っている。福音書安息日律法の物語ではない

が、規則が人間を束縛するという面があり、何のための規則なのかを考えさせられる。人間のためなの

か、制度のためなのか。「安息日は人間のためにあるので、人間が安息日のためにあるではない」という

エスの福音の自由を、何らかの形でホランティアとして貫いていきたいと思っている。

 またもう一人の方からの発言がありました。この方は、町内会のお年寄り15人で千葉白浜に一泊旅行

に行ってきたことを話してくれました。その旅行の参加者の最高年齢は92歳の方だった。主婦の方で今で

も家族3人のまかないをしているという。旅館に泊まり、野島崎灯台や熱帯植物園と年の放し飼いのある

ふるさと自然にも寄って、みんな元気で楽しい旅行だった。地域の人たちと交わりを深めることは、当た

り前のことだが、楽しいことである。
 
 そして一人の方は、一人っ子として4月6日に召された自分の母の死について話されました。



         「愛ゆえの愛」(『ルターによる日々のみことば』より)

 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。
        
                                   第一ヨハネ4:19

 熱と煙のないところには炎がないように、愛のないところには信仰はありません。それは信仰によって

神がどれほどまでに自分を愛しておられるかを知った人は、神に対して燃える愛の心を持ち、その心はじ

っとしていることが出来ないからです。その心からは、感謝の愛がおしみなく現われ出ざるをえないので

す。

 しかし、神はわたしたちの働きを必要としておられません。また、神に感謝し、神をたたえる以外に神

にむかってなにかをするように命じておられません。それで、キリスト者はまごころから隣人のために身

をささげ、惜しみなく相談にのってあげながら、助けたり、奉仕をしたりします。それは、神がその恵み

を全くのあわれみから惜しみなく示してくださったことを知っているからです。しかも、彼はなんの価値

もなく、なおも罪の中にあった時にすら、いや、彼が神の敵であり、神について全く無関心であった時に

すら、恵みを示してくださったのでした。そこで今や、彼が隣人のあやまちや罪の中にいるのを見る時、

その人に正しい道を示してあげざるをえないのです。そして、自分が以前に慰めや助けを見いだしたとこ

ろに、その人を導いてゆくのです。彼は福音を宣べ伝え、罪のゆるしにその人を導きます。さらにまた、

はだかでいるならば着せ、飢えているならば食べさせ、かわいているならば飲ませます。要約すれば、自

分にしてほしいことを、隣人にもするのです。なにか隣人のためにできる方法があれば、頼まれる前に心

から喜んでそれをするのです。