「安息への招き」エレミヤ書17:19-27、2016年7月31日(日)船越教会礼拝説教
・ユダヤ人の歴史を通じて、安息日(シャバット)はユダヤ人の生活の中心でした。7日を1週とする時の
周期の最後の日(土曜日)、それは休息の日として知られています。しかし単なる休みの日に留まらず、
ユダヤ教のもっとも大事な聖なる日なのです。日本人に分かりやすくたとえると、1週に1度「お正月」
を迎えるようなことです。
・安息日がなければユダヤ教も存続せず、ユダヤ人の歴史も消滅していたことでしょう。ユダヤの格言
に、「安息日がイスラエルを守った」とあります。一方、ユダヤ人は安息日を守るのに命懸けでした。
現在も宗教的でない家庭でも、この日には家族で共に集い、共に食事をし、共に語らい、時には歌った
りして、ユダヤ人固有の伝統が伝えられています。親しい友人や知人を家庭に招待するのも、シャバッ
ト(安息日)の過ごし方の楽しみとなっています。
・安息日は、ユダヤ人の暦の中でもっとも聖なる日だと考えられています。それは、いろいろの祝祭日
がありますが、十戒に書かれているのは安息日だけだからです。また、安息日違反にはもっとも厳しい
罰則が書かれているからです。ヨム・キプール(贖罪日)は、それを守らない者は民の中から追放され
るだけですが、安息日に働いた者は「必ず殺されるであろう」と規定されています(出エジプト記
31:15、35:2)。
・安息日は、旧約聖書にその起源が記述されています。まず、創世記2:1-3を見ると、「こうして天と地
と、その万物は完成された。神は第7日にその仕事(メラハー)を完成された。すなわち、そのすべての
仕事を終わって第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された」とあります。モーセの
十戒の中には、安息日は第4番目に出てきます。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働いて
あなたのすべての仕事をせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、何の仕事をもしてはならない。
あなたもあなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうであ
る」(出エジプト20:8-10)。この十戒は、申命記5章にも繰り返して載っていますし、出エジプト記31:
13-17にも、再び書かれています。
・安息日は、神が天地を創造したことを確認し、その神がユダヤ人の歴史を救ったこと、イスラエルが神
の民であることを記憶する記念日なのです。いわば、神と人との交わりの日です。
・このような安息日の遵守がユダヤ人の中で行われるようになったのは、捕囚期以後と言われています。
エレミヤが預言活動をしていたのは、バビロニヤによる第二回の捕囚が行われた直後までと考えられてい
ますから、安息日遵守が行われた捕囚期以後には属していませんでした。そこで、今日のエレミヤ書の安
息日順守の記事は、後の時代の挿入と考える注解者もいます。けれども、「現在の形におけるこの箇所が
そのままエレミヤのものであるとは考えられないとしても、中心にあるのはエレミヤの言葉であることを
否定する絶対的根拠は見出されない。最近はこのように見る人が次第に多くなって来ている」(関根正雄)
という注解者もいます。
・関根正雄さんは、<この箇所の中心的思想は安息日を守れ、そうすれば君達の生存は神によって確保さ
れる、そうでなければエルサレムは滅びる、ということである。安息日を聖別するということは我々が与
えられている時間を自分の為に用いつくさないということである。一週間の生活が神本位になり、自分本
位にならない為に安息日は厳守されなければならない。自分の生活を神本位にし、神に捧げて生きる者は
神によってその生存が確保される。然し自分本位に生き、この世の物を自分の為に用いつくそうとする者
は罰せられ、滅ぼされる、というのである。このように解する時この言は非常に深い(下線北村)。安息
日は十誡の年代をどう見るにせよ、アモス時代に安息日を守ることが重要な掟であったことは確かであり
(アモス8:5)、エレミヤが再びここに安息日の重要性を強調したことは不思議ではない>と言っています。
アモス書の8章5節では、預言者アモスが「商人の不正」糾弾しているところで、<お前たちは言う。「新
月祭はいつ終わるのか、穀物を売りつくしたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいも
のだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。・・・」>と言われていま
す。ここに<安息日はいつ終わるのか>と記されていますので、アモスの時代には安息日が守られていた
ことが分かります。
・このようなことから、エレミヤがもしこの安息日順守の預言を語ったとするならば、一週ごとに一日、
安息日には、仕事をせずに神との交わりをもつことの大切さを、イスラエルの民に訴えたということです。
今日のエレミヤ書の箇所でも、「主はこう言われる」と言って、<安息日を聖別しなさい。それをわたし
はあなたたちの先祖に命じたが、彼らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くし
て、聞き従わず、諭しを受け入れなかった>(22,23節)と言われていますから、安息日順守が捕囚期以
前のイスラエルの民の中では実行されるのがなかなか難しかったことが想像されます。エレミヤの時代も、
イスラエルの民の中で安息日が守られ、イスラエルの民が一週間一回、必ず安息日の日には神との交わり
を大切にして生きていたのでしょうか。自己本位ではなく、神本位に、神と契約を結んだ民として自分た
ちはこの世を生きていくのだと、安息日毎に繰り返し、自分たちの存在の意味を繰り返し確認しながら生
きていたのでしょうか。アッシリヤ、バビロニア、エジプトなどの覇権国家である諸権力がひしめき合っ
ている中で、しかも富への誘惑に打ち勝って、神ヤハウエの契約の民として、十戒に示されている、神の
みを神とし、隣人を自分のように大切にして生きていたのでしょうか。
・エレミヤが、この安息日順守の預言を語ったとするならば、エレミヤの時代のイスラエルの民は、彼ら
の先祖と同じように、「安息日を聖別しなさい」という戒めに聞き従わず、耳を貸そうともしなかったの
ではないでしょうか。そのようにして、エレミヤの時代のイスラエルの民も、神の契約の民としての自ら
のアイデンティティーを失う危機に瀕していたに違いありません。そのようなことを思う時に、このエレ
ミヤ書の安息日順守の記事から、私たちがキリスト者として聖日厳守をどのように考えているかが問われ
ているように思われます。私の世代のキリスト者の中には、高度経済成長の時代を企業人として仕事に追
われて生きて来て、その間は殆ど日曜日の礼拝には出席せずに過ごし、定年になってから日曜日の礼拝出
席を再開するようになったという人もいます。また、若い時には教会に出席して洗礼も受けましたが、仕
事をするようになってからはすっかり教会から離れてしまったという人もいます。日曜日ごとに礼拝出席
を欠かさずに聖日厳守はしているけれども、日曜日と他の週日との自分の生き方を区別して、日曜クリス
チャンで他の週日は全く世俗の人と同じに生きるという二元的な生き方をしているキリスト者もいるで
しょう。現実の社会はキリスト者に二元的生き方を強いる力が強いですから、そこで何とか一体化しよう
と苦闘しているキリスト者もいることでしょう。
・そういう現実の中で、「聖日厳守」を律法主義的に語っても余り意味がないと思われます。かと言って、
日曜日の礼拝を疎かにすることはできません。福音書のイエスとファリサイハの律法学者との安息日論争
を思い起こします。ファリサイハの律法学者は、安息日に関する39の細分化された禁止条項としての掟
を守ることを大切に考えました。イエスは、安息日は神との交わりの日で、何よりも神の御心を大切にし
て、瀕死の病人以外に安息日には手当してはならないという掟がありましたが、その掟を破って、手の萎
えた人の手を癒やしました。安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことを、労働を禁止している安息
日に麦を手でもんだという脱穀の労働をしたと言って、イエスを責めたファリサイハの人々に対して、旧
約の故事を引き合いに出してイエスは反論しています。そして「安息日は、人のために定められた。人が
安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と語ったと言うのです。
・そのような福音書のイエスの物語からすれば、イエスがどのように安息日を大切にされたのかに思いを
馳せなければなりません。イエスが安息日を大切にされたのは、ただ律法主義的に安息日を遵守すること
ではなくて、安息日において人間解放を追体験することではないかと思うのです。神の前に、神に命与え
られて今生きているこの自分は何者なのかを再確認する日、それが私たちにとっての日曜日の礼拝ではな
いでしょうか。そして何よりも私たちは聖書から、神に与えられた命を神と隣人との関わりの中で豊か
に生きられたイエスという方がいらっしゃるということを知らされるのです。イエスは、わたしたちのよ
うに日曜日の生活と他の週日の生活を二元化せざるをえない状況の中でも、安息日での神の交わりをもっ
て、一元的に一週間を生きられた方なのです。その結果十字架に架けられて殺されてしまいましたが、神
は、そのイエスを復活させて、霊において今でも私たちの中に生きているようにさせてくだいました。
日曜毎の礼拝で、私たちはこの復活された主イエスと出会うのです。そして、その復活の主イエスが週日
私たちと共にいてくださることを確認しつつ、新しい一週間の歩みへと出ていくのです。日曜日に礼拝に
出席できない方は、自分で聖書を読み、礼拝に連なる工夫が必要でしょう。そうでないと、どうしても私
たちは日常性に埋没してしまうのです。イエスを信じることによって、私たちは神の子とされて新しくな
っているのです。けれども、私たちの中には未だ自己本位の古い自己が生きています。私たちは、その
古い自己を内に抱えて生きている者ですから、イエスによってこの自分が神の子どもとして新しされてい
ることを、繰り返し、繰り返し、確認してい行かないと、いつでも古い自己に戻って行くのです。大切な
ことは、私たち自身がどう生きているかという事で悩むことよりも、主イエスを自分の中に迎え入れて、
全ての人のために十字架にかかり、復活された主イエスと共に、新しくされた自己として他者である隣人
との関わりを生きていくことです。この私がそのような小さなイエスとして、他者である隣人と共に生き
ていけるその光栄と喜びをもって、同時に責任的に生きていくことではないでしょうか。
・今日はエレミヤ書の安息日順守の記事から、そのような私たちキリスト者のアイデンティティーを確
認できればと思いました。では祈ります。