なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

軌跡(2)

 飯沼二郎さんのこのような文章が「教団新報」(日本基督教団機関紙)に掲載されていたという

ことは、現在では考えられなません。

 当時の足立梅田教会は、青山学院の中高の宗教主任をしておられた故藤村靖一先生が学校と教会の

兼務ができないということで、私が主任担任教師でしたが、実質的には先生が主任でした。しかし、

先生は、私のやることに一切口出ししないで、私の自由にさせてくださいました。月報をつくること

も、月報に載せる記事についてもです。当時教団の70年問題の渦中で、神学校を出て教会の現場に出

たばかりの私は、教団問題とは何かと、教会の人にも少しでもわかってもらいたいと、いろいろな文

章を月報に転載していました。この飯沼二郎さんのものもその一つです。

 今から考えれば、随分気負っているように感じますが、当時は教会の人と認識を共有したいとの一

心だったように思います。
      

        「信仰・階級・市民」 飯沼二郎(教団新報より)
        
                 (1971・7 月報 日本基督教団足立梅田教会)

 その二 合法と非合法

 キリスト者が、もし真の信仰、真の隣人愛をもちうるとしたら、それは、ただ神のあわれみによる。

しかし、それを、どのように用いるかは、各人の自由にまかせられている(マタイ25章の、主人の財

産をまかせられた僕のたとえ話を想起せよ)。

 キリスト者が真の信仰、真の隣人愛をいきいきともちつづけるか否かは、結局、隣人の天分(個性)

を内と外から抑圧している個人的および階級的エゴイズムをどれだけ自分自身の問題として受けとめ

ているかによる。個人的エゴイズムの問題については、後にふれる。ここでは、階級的エゴイズムの

問題について考えてみたい。

 人類が階級社会に入って以来つねに、支配階級が被支配階級を支配するための最も直接的かつ具体的

な手段は、法であった。もちろん、すべての法が支配階級のエゴイズムのあらわれであるわけではない。

しかし、もしも法が、支配階級のエゴイズムのあらわれとして、被支配階級なる隣人の天分(個性)の

発揮を、外から抑圧している事実をみたならば、わたしたちは隣人のために、その法を破ることに

、ちょうちょしてはならないであろう。

 キリスト者が、真の信仰、真の隣人愛をもちつづけることができるか否かの分岐点の一つは、隣人を

支配している法を不変のものとみるか、変えられるべきものとみるかにある。法を不変のものとみるそ

の瞬間から、キリスト者は、とめどもなく、堕落のドブ沼におちこんでいく。あの偉大な信仰者ルター

でさえも、封建社会の法(秩序)を不変のものとみたときから、隣人なる農民を裏切ることになったの

である。

 「隣人を愛せよ」と命じたもうイエス自身が、また、これについての最も正しい模範を、わたしたち

に示している。イエスの当時、ユダヤにおいて最も重んじられていた法は、安息日の厳守であった。し

かし、イエスは、隣人への愛のゆえに、あえて、この法を破られた。そして、そのことを非難されたと

き、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」よ、いわれた。

 もちろん、イエスといえども安息日を破ることが、その身に死をさえ招くことを、知らなかったはず

はない。しかも、彼の隣人へのかぎりなく深い愛が、安息日の翌日まで待つことを許さなかったのであ

る。

 わたしたちもまた、イエスの模範にしたがうべきである。みずからの個人的エゴイズムから法を破っ

てならないことは、いうまでもない。(わたしたちはおうおうにして、個人的エゴイズムから法を破る)。

しかし、隣人を外から抑圧している支配階級のエゴイズムのあらわれである法を、そのままにしておい

て、どうして、隣人を愛することなどできようか。法を破ることによって、社会的に多くの不利を招く

ことが予想され、その身に死を招くことが予想されようとも、隣人のために法を破ることこそが、イエ

スにしたがうものの、なさねばならない義務なのである。

 たとえは、出入国管理令という法律がある。1949年以来日本に住むすべての外国人を支配してきた法

律であるが、いまどき、こんな法律が日本にあるのかと驚くほど前近代的なものであり、日本人の一人

として、まったく顔をあげえないような恥ずかさを感じる。

 第24条には、国外退去を命じる24の項目が掲げられているが、その中にはライ病人、精神障害者、身

体障害者、国または地方公共団体の財政的な負担になっている者などが含まれている。さらに、重要事

項の決定が、すべて法務官僚の自由裁量にまかされており、時効は認められず、「銀貨三十枚」ならぬ

五万円で密入国を売り渡すことが奨励されている。

 この法律の中心は、外国人にたいしていっさいの反政府運動、労働運動を禁止するところにある。

                                  (その三に続く)


 ※飯沼二郎氏の考え方を、更に詳しく知るためには、『キリスト者市民運動』(未来社)をお読

みください。