なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

軌跡(3)

        「信仰・階級・市民」 飯沼二郎(教団新報より)
            
               (1971・9 月報 日本基督教団足立梅田教会)

 その三 みえない人

 私たちをとりまく法律のすべてが、支配階級のエゴイズムのあらわれであるわけではない。支配階級

は、法律が自らのエゴイズムのあらわれであることをできるだけ被支配者の目にかくそうとする。もし、

それが明らかに被支配者の目にうつれば、被支配者といえども、黙っていないからだ。もちろん、その

ときには最後の手段である暴力(機動隊から自衛隊に至る「軍隊」)を使用すればよいが、暴力の使用

は、自らのエゴイズムを気づかせる結果になりやすいから、使用しないことにこしたことはない。

 では、どうしたら、支配階級のエゴイズムを見破ることができるか。内村鑑三に「基督教の修養」と

いう文章がある。キリスト教にも修養なるものがあると前置きして、一に祈り、二に聖書の研究、三に

労働だという。私も、そのとおりだと思う。祈祷、聖書、そして労働。労働とは、体を動かすことであ

る。

 隣り人を愛するとは、自らの個性の発揮を、自他のエゴイズムによる抑圧によって阻げられている被

抑圧者なる隣人を愛することであり(丈夫な者には医者はいらない。いるのは病人である。)、被抑圧

者なる隣人の立場に立って、実際に「体を働かすこと」である。

 私の乏しい経験からいえば、一脱走米兵の政治亡命をかちとる運動をとおして司法官や警察官の反憲

法性、その根底にある安保条約の非憲法性に目が開かれた。

 また、韓国の一密入国者とかかわりをもつことによって、出入国管理令という前近代的・非人道的な

法律の存在することを知った。

 ルカ十章に、イエスの「よくサマリヤ人」のたとえ話がのっている。江津鬼おそわれて着物をはぎと

られ、半殺しにされて倒れている人を、祭司もレビ人も、みてみないふりをして通りすぎた。ところが、

サマリヤ人の旅商人が通りかかって、すぎに彼を介抱し、自分のロバに乗せて、宿屋の主人にカネをわ

たし、足りなければ帰りに払うからといって、旅立っていった。

 私が初めてキリスト教会の門をくぐったのは敗戦の翌年、敗戦によってむきだしにされた人間のエゴ

イズム、とくに自分自身のエゴイズムの醜さに、やりきれなくなったからである。

 以来25年。私はしだいに街頭におし出されてきた。私は本来、自分ひとりで本を読んだり、論文を

書いたり、バッハをきいたり、山を歩いたりするのが好きな人間だ。それが、まったく私自身の意志に

反して、反戦・平和のための市民運動におしだされてきたのは、もちろん、それはきわめて不充分、不

徹底な運動にすぎないけれども、「よきサマリヤ人」たれとのイエスの言葉に、おし出されてきたので

ある。私には何もできないけれども、目の前に倒れている半殺しにされている人を、あの祭司やレビ人

のようにみてみないふりをして通りすぎることだけはすまい、とおもってきた。そして私は、今でも反

戦・平和のための市民運動というものは決して自分とはかけはなれた遠いところにあるのではなしに、

自分の目の前に倒れている人を見殺しにしないというところにこそ、その出発点をもっているものと信

じている。

 しかし、最近、私は、あの祭司やレビ人は、みてみないふりをしたのではなしに、実際にみえなかっ

たのではないかと考えるようになった。私にも、韓国からの一密入国者と知り合いになるまで、入管令

はみえなかった。彼を隣人として意識したとき、初めて入管令がみえてきたのである。イエスは言われ

た、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになる

ためである」(ヨハネ9章)。

                                (続く)