なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

軌跡(4)

      「信仰・階級・市民」 飯沼二郎(教団新報より)
      
                (1971・10 月報 日本基督教団足立梅田教会)

 その四 内なる抑圧

 「隣人を愛する」とは、神から与えられた隣人の天分(個性)を阻げている内外のエゴイズムによる抑

圧を排除するべく努力すること、すなわち「相手の良さを見つけ、伸ばす」ことにほかならない。今まで、

外からの抑圧(階級的エゴイズム)について考えてきた。最後に内からの抑圧、すなわち隣人みずからの

個人的エゴイズムについて考えてみたい。

 ルターは生涯、この個人的エゴイズムの問題に、真剣に悩んだ人であったが、階級的エゴイズムの問題

をまったく無視していたところに根本的な欠陥があったと、先に記した。一方マルクスは、階級的エゴイ

ズムの問題に生涯真剣にとりくんだ人であったが、個人的エゴイズムの問題には、ふれようとしなかった。

それは、彼があくまでも、資本主義社会における人間疎外の問題を「科学」的にすなわち社会科学的に解

決しようとしたからであった。

 マルクスが、個人的エゴイズムの問題を無視していたとは思えない。しかし、彼の流れをくむ人々は、

マルクスが固く守っていた社会科学的な限界に対する意識を、しだいに忘失していった。ここに、社会主

ソ連のおちいったあのおそるべき誤謬の原因がある。

 マルクスの人間疎外論のもつもう一つの限界は、彼がブルジョアジーの階級的エゴイズムのみを問題に

して、プロレタリアートのそれを問題にしなかった点である。もちろん、労働価値説からいえば、階級的

エゴイズムが問題とされるのはただ、搾取者たるブルジョアジーについてのみであり、非搾取者のエゴイ

ズムなど、問題にされるべくもない。

 しかし、階級的エゴイズムの根底である個人的エゴイズムの問題を視野に入れるならば、プロレタリア

ートといえども、なお、階級的エゴイズムから免れない存在であることは明らかである。(前衛党や前衛

的な運動における、悪しき「官僚制」をみよ!)ただ、資本主義社会においてはブルジョアジーの階級的

エゴイズムが、社会の全面に貫徹されるというだけのことにすぎない。ひとたび、プロレタリアートが政

権を握るならば今度は、プロレタリアートの階級的エゴイズムが貫徹することになる。プロレタリアート

独裁下における階級的エゴイズムの抑圧を排除するためには、資本主義社会において発達した市民的自由

が、発展的に継続されなければならない。

 しかし、それによっても、なお個人的エゴイズムの問題は、根本的に解決されない。これは人間疎外論

の最後に残された最も困難な問題である。自分のエゴイズムすら、うちくだくことのできないものに、ど

うして、隣人のエゴイズムをうちくだくことなど、できようか。

 これについても、私たちの最もよき模範はイエスである。イエスの復活を信じようとしない者にも、福

音書におけるイエスの弟子たち(たとえばペテロやヨハネ)と、使途行伝における彼らとのあいだに「別

人」ともいうべき決定的な違いのあることを、無視することはできないであろう。人間、二十五歳を過ぎ

れば、よほどのことがなければ、これほどの変化を起こすはずがない。福音書使徒行伝との間に、よほ

ど大きな事件があったと考えるほかない。それは、イエスが彼らの罪のためにすすんで十字架の死を選ば

れたという事実である。

 私たちもまた、もしも、隣り人の罪(エゴイズム)をうちくだこうとするならば、彼のために進んで十

字架を負うべきである。もちろん、それによって、隣り人のエゴイズムをうちくだき得るという保障は、

どこにもない。しかし、イエスに従おうとする者は、この一点に賭けるほかはないのである。
                         
                                        (おわり)