なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(23)「癒しの衝撃」ヨハネ5:9bー18

7月2(日)聖霊降臨節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌      12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編22編25-32節(讃美歌交読文24頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書5章9節b―18節(新約172頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    430(とびらの外に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-430.htm

⑨ 説  教   「癒しの衝撃」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

38年もの間病気であった人が癒されたとすれば、誰でも驚き、その癒された人のことを憶えて、「よかったですね!」と言って喜ぶのではないかと思います。けれども、ヨハネによる福音書では、その癒しが安息日に行われたので、喜ぶどころか、「ユダヤ人たち」は律法違反ではないかと、床を担いで歩きだした病気を癒された人をとがめると共に、その人の病気を癒したイエス追及し、論争を挑んでいるのです。

 

9節の最後に、「その日は安息日であった」(新共同訳)と書いてあるように、この癒しが行なわれたのが、ちょうど安息日であったために、イエスを攻撃するユダヤ人たちとイエスとの間に、論争が起こります。

 

10節に、「それでユダヤ人たちがその癒された者に言った、『安息(の日)だ。そして自分の床を担うことはお前に許されていない』」(田川訳)と書いてあります。当時のユダヤ教では、安息日にしてはならないことについて、細かい規定が決められていたということは、よく知られています。その規定のなかには、病人を癒すことだけでなく、物をかつぐことも入っていました。それでユダヤ人たちは、癒された人のここでの行為をとがめたのです。それに対して、「その者が彼らに答えた、『私を健康にして下さった人が、その人が私に、自分の床を担って歩め、と言ったのです』」(11節、田川訳)と、病気を癒された人は弁解します。

 

するとユダヤ人たちが、「お前に、担って歩め、と言ったのは何者だ」(12節、田川訳)と尋ねます。しかし、「癒された者は、彼が何者であるのか、知らなかった」のです。「その場所には群衆がいたので、イエスは去ってしまったからで」(13節、田川訳)す。

 

ところが、その人が宮に入ってゆくと、そこにイエスがいて、その人はイエスと出会います。そしてイエスはその人に、「ごらんなさい、あなたは健康になった。もう罪を犯してはいけない。そうしたらあなたには何かもっと悪いことが生じますよ」(田川訳)と言われたというのです(14節)

 

このイエスの言葉は、大体二通りに理解されているようです。その一つは、「あなたには何かもっと悪いことが生じますよ…」というこの言葉を、「お前は癒しを与えられたのに罪を犯せば、その報いとして、これまで病気で苦しんで来たのよりももっとひどい目にあうかも知れない。もっとひどい状態になるかもしれない」というふうに理解する理解の仕方です。それはいわば因果応報的な考え方になります。つまり罪を犯すと、その報いとして、何かの不幸が自分の身に起こるというわけです。

 

しかし、因果応報的な考え方というのは、例えばヨハネ9章の「生まれつき盲人」の癒しの出来事などで、イエス自身がはっきりと否定されている考え方です。したがってこの言葉も、そういうふうに理解すべきではなくて、イエスがここで、この言葉で言っておられるのは、「お前は病気を癒されたのだから、もう罪を犯してはならない。さもないと――つまりそういう恵みを受けたのに、なおも罪の中に留まっておれば、そのこと自身が(恵みを与えられたのになお罪の中に留まっているというそのこと自身が)お前にとっては、もっと悪いことになる。――つまり、そのこと自身が、この人がこれまで苦しんできた病気よりも、もっと悪いことなのだ」と言っておられるというふうに理解すべきだと、言う人もいます。井上良雄さんは、恐らく、後者の理解の方が正しいのではないかと思いますと言っています。

 

病気が癒されて肉体的に健康になったからと言って、それで人間として健康になったのかと言えば、それは違う。罪からの解放を得て、人間は本当の健康になるのだから、ということではないでしょうか。病気を癒されて、健康になったこの人が、その後隣人を隣人とも思わずに自己中心的に人を踏み倒しながら生きたとすれば、そのような人は38年間病気だった時よりも、人間としては不健康ではないかということではないでしょうか。

 

ここでイエスと、この癒された人との問答が終わり、次の15節から、今度はエスユダヤ人たちとの直接の問答が始まります。すなわち、この癒された人が、自分の病気を癒してくれたのはイエスだと言ったので、ユダヤ人は、そのことを材料にして、安息日についての規定を破ったイエスを追及し始めます。それに対して、イエスは、17節で、「我が父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」(田川訳)と答えているのです。この17節のイエスの言葉は、ユダヤ人の追及に対するイエスの答えであるだけでなく、5章全体の中でいわば要のような位置にある言葉だと言ってもよいのではないかと思います。三十八年間、病気で苦しんできた病人に対するイエスの癒しの働きの背後にも、この言葉がありました。そして次回から扱います19節以下の部分で、イエスが長々と語られた言葉全体も、やはりこの17節の言葉の展開であると、言うことができるかと思います。

 

 

世界は、このベテスダの池のほとりの光景が示しているように、苦しみと悲惨とに充ちています。そういう中で、神の創造の御業は、まだ決してその目標に達したとはいえないのですから、神はその中で今日も働いておられます。したがって、その神の独り子であるイエスも、その働きをやめることはできないのです。ですから彼は、「我が父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われます。そして、たとえ安息日の規定があっても、彼の働きが、安息日の枠によって制約されるということはありあません。彼の働きは、安息日の枠を突破して前進して行きます。前進することをやめないのです。

 

そしてさらに、そのようにイエス安息日の規定を破ることによって、一見、彼は律法を無視しているように見えながら、実は安息日が定められている本当の意味を生かしているということが、言えるのです。やはりマタイ12章の安息日論争の中で、人々が「安息日に人をいやしてもよいのか」と質問したのに対して、イエスは「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ち込んだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか、人は羊よりもはるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」(11,12節)と答えています。この答えが示しているように、律法が定められたのも、また安息日が定められているのも、それはすべて人間を生かすため――人間を生かそうとされる神の意志のあらわれに他なりません。したがって、それが一つの宗教的な規則として固定化され、人間を拘束し、人間を生かす道を閉ざし、人間を殺すものとなるということは、まったく本末転倒であります。

 

(以下ほぼNIBによる)

ユダヤ人たち」は、彼等の権力、権威、そしてまさに彼等の現実認識そのものをイエスに脅かされたことから、イエスに敵対します。安息日の掟を護ることは、生活と宗教的行為に秩序を与える制度全体を護ることであります。それは神について、人間の経験に神がどのように入ってくるかについて、また宗教共同体のメンバーについての特定の理解を護ることであります。この世における神の臨在をイエスが言うとおり再規定するなら、「ユダヤ人たち」は余りに多くのものを失わなければなりません。だからユダヤ人たちは多くを護らなければならないのです。そこで彼等は自分たちを脅かすものとしてイエスを抹殺するという選択をします。宗教的権威であり同時に権力者でもある「ユダヤ人たち」は、新しい生き方の可能性を受け入れるどころか、団結の輪でそれを締め出してしまうのです。

 

この物語が伝えるイエスに対する拒否は、それ故、神を知り、信仰生活を調える生き方として、これまでにない全く新しい可能性を拒否することであります。第四福音書記者がいやしの奇蹟を、この拒否をきっかけとしているのは偶然ではありません。いやしの奇蹟は、世界がどのように秩序立てられているかについての理解に挑戦すると同時に、様々な新しい可能性に具体的な肉付けを与えるからであります。その詳細が宗教的権力機構の内部で人間によって規定され、発布される安息日の掟は、この世におけるイエスの働きについて最終的な決定を下すことは出来ません。神が働いているなら、イエスも働き続けるのです。

 

現代の教会においては、聖職者の任命、教会管理、洗礼や聖餐の営みなどに関する問題が、しばしばこの物語の「ユダヤ人たち」にとっての安息日の掟の役割を果たしています。つまり宗教共同体の一員であるか否かを、また人と神との関係を決める重要な問題としての役割を果たしているのです(このことは信仰告白と教憲教規の遵守を絶対化する日本基督教団の一部の信徒・教職にも当てはまります)。ヨハネの信仰共同体を規定する指標は、イエスを通して神に近づくことが出来、イエスにおいて神が臨在するという、受肉の現実であって、具体的な宗教行事を護ることではありません。

 

エスはそのように安息日の規定を突破することによって、安息日の本来の主旨を生かし給うのです。安息日に敢えて病人を癒すことによって、安息日を定められた父なる神の意志を本当に生かし給うのです。ですから彼は、17節で、「我が父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われるのであります。

 

そのような働きの一つとして、このベテスダの池のほとりで、三十八年間病気に苦しんできたこの病人が、その苦しみから解放されました。もちろんそれは、一つのしるしにすぎません。すなわちそれは、結局、もっと大切なものを指し示す指標にすぎません。それゆえに、ここで癒されたこの病人も、やがてはいつか死ななければならないのです。しかし、この病人の癒しにおいて示された神の意志――すなわち、すべての人間を生かそうとされる神の意志には変わりはありません。そして、そういう神の意志の中で、神の独り子イエス・キリストは働いておられ、今も働くことをやめ給いません。ベテスダの池のほとりで起こった癒しは、(私たちがそれをそのようなものとして理解するかどうかは別として)今日もやはり起こっているのです。私たちは、そのように今日も働いておられるイエス・キリストの働きに、共に参与する者として招かれているのではないでしょうか。

   

(この説教はほぼ井上良雄『ヨハネ福音書を読む』による。)

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちはともしますと、今日の聖書に出て来た「ユダヤ人たち」のように、教会の教義や制度的な枠組みの中に神の働きを閉じ込めてしいがちな者です。「我が父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われて、38年間病気で苦しんできた人を癒されたイエスが、人々を生かすために今も働いていることを信じます。どうか私たちもその働きに参与することができますようにお導きください。
  • 神さま、病気だけでなく、戦争や抑圧差別や貧困によって苦しんでいる人が今この世界の中で本当にたくさんいます。その方々の上にも、人を生かすあなたと主イエスの働きが及びますように祈ります。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    356(インマヌエルの主イエスこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。