なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(37)「公然と語る」ヨハネ7:14-24

10月29(日)降誕前第9主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌  7(ほめたたえよ、力強き主を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編104編19-23節(讃美歌交読文114頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書7章14-24節(新約178頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     357(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-357.htm

⑨ 説  教   「公然と語るイエス」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

私は鶴巻の自宅にいる時には、いつも午前の10時ごろと午後の5時ごろに、一日2回の食事をしています。独りですので、食事をしながらテレビを観ることが多いのですが、午前の10時ごろに高田純次の自由散歩という番組があり、先日鎌倉の鶴岡八幡宮が取り上げられていました。私も小さい時に家族と一緒に行ったことがありますが、鶴葛岡八幡宮はお正月の初詣にはたくさんの人がきます。その賑わいは大変なものです。

 

今日のヨハネ福音書の7章14節には、<祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行き、教え始められた>(新共同訳)と言われています。ここで「祭り」と言われているのは、「仮庵の祭り」のことです。前回お話ししましたように、この仮庵の祭りは9月の末から10月のはじめにかけて行なわれた、イエスがいたユダヤの三大祭りの一つで、エルサレム神殿には、ちょうど日本のお正月の初詣のように、ユダヤの各地から沢山の人が集まってきました。エルサレム神殿は少し高台にありましたので、「イエスは神殿の境内に上って行き」と言われているのは、そのためです。その境内には沢山の人々がいたわけですが、そこで「イエスは教え始められた」というのです。

 

その教えを聞いたユダヤ人たちは驚いて、「この人は、学問をしたわけではないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言ったというのです。聖書とういのは旧約聖書のことですが、ユダヤ人たちは、この旧約聖書には自分たちがどう生きるべきかという神の教えが記されていると信じていました。イエスについて記している新約聖書福音書には、「律法学者」という人たちが出てきますが、この律法学者は旧約聖書を学問的に勉強していた人たちです。ユダヤ人たちは、イエスが学問的に聖書を学んでいる律法学者でもないのに、どうして聖書のことをこんなによく知っているのだろうと驚いたのです。

 

するとイエスは、ユダヤ人たちに答えてこのように言われたというのです。<わたしの教えは自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである>(16節)と。

「わたしをお遣わしになった方」とは神さまのことです。イエスはその神さまに「アバ父よ」(お父様)と幼子のように呼びかけて祈っていたと言われます。イエスはヨセフを父に、マリアを母に持つ人間の子どもですが、そのイエスが成人(大人)になって、「アバ父よ」と祈っていたということは、自分は父ヨセフと母マリアの子どもであるとともに、神さまの子どもでもあると思っていたということです。

 

旧約聖書の創世記の初めのところに神さまによって人間が造られたという人間創造物語があります。人間創造物語は二つあるのですが、その一つの方には、神さまは粘土のような土で人間の形をつくり、その鼻にふっとご自分の息を吹きかけると、私たちのような生きた人間になったということが書かれています。この人間創造物語で聖書が語ろうとしていることは、私たち人間は体(からだ)である肉体と共に、神の息吹が吹きこまれることによって、その霊を受けとめる魂も与えられているということです。私たちは心で体(肉体)からの声と魂(神の霊)からの声を聞きながら生きているのです。ところが、ユダヤ人たちは、ユダヤ人社会の中で小さい頃から育ってきて、大人になった人たちです。そのユダヤ人社会は、私たちの今の日本の社会と同じように、大人たちの考え方によって子どもにも教育がほどこされて、大人たちの考え方や生き方を子どもたちに受け継がせようとします。ユダヤ人が大切にした旧約聖書には神の教えが記されているのですが、その旧約聖書を人びとに教える人たちが、神の教えを自分流に解釈して教えたために、神の教えが人間の教えになってしまっていたのです。

 

エスが、ユダヤ人たちに<わたしの教えは自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである>(16節)と言われたのは、このような意味です。「わたしの教えは、ユダヤ人たちを導く人たちのように、神の教えと言いながら、自己流に解釈した自分の(人間の)教えではない。わたしに命を与え、わたしをこの世に遣わしてくださった方である、神さまご自身の教えである」と、イエスは言ったのです。

 

ですから、続けてイエスはこのように言われました。<この方(すなわち神)の御心(意志)を行なおうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである>(17節)と。ユダヤ人たちの中にも、もし神のみ心(意志)に従って生きようとしている人であれば、その人は、イエスの教えが神から出たものか、イエスが自分勝手に話しているのか、分かるはずだと、イエスは言われるのです。

 

そして、更に続けてこのようにイエスはおっしゃいました。<自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人である。その人には不義がない>(18節)と。「自分の栄光を求める」とは、自分が偉くなること、自分がお金持ちになること、自分が他の人との競争に勝って一番になることを目ざして生きる人のことです。イエスは、そういう人は、神の息をその人の鼻から吹きこまれて、神に命与えられたまことの(真実な)人間ではない、というのです。イエスは、自分のことだけを大切にして、他の人のことはどうでもいいと考えて生きている人は、まことの(真実な)人間、本当の人間ではない、本当の人間には不義=不正(この不義は不正と訳した方がよいと、田川さんは言っています)がないと、おっしゃっているのです。

 

神の霊(命)である神の息を鼻から吹きいれられて、その神の霊(命)によって生きている人が、本当の人間であり、正しい人間であると、イエスはおっしっているのです。たまたま本の整理をしていましたら、『マザー・テレサの愛のことば』という小さな本をみつけて読み返してみました。このマザー・テレサの愛のことばには、神の霊(命)によって生きる本当の人間、正しい人間とは、どういう人なのかが記されていると思います。短い言葉ですので、少しとばしますが、ほぼ全文を紹介したいと思います。

 

【わたしたちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。ほほえみ、ふれあいを忘れた人がいます。これはとても大変な貧困です。/多くの人は病んでいます。自分がまったく愛されていない、関心をもってもらえない、いなくてもいい人間なのだと…。人間にとっていちばんひどい病気は、だれからも必要とされていないと感じることです。人は一切れのパンではなく、愛に、小さなほほえみに飢えているのです。だれからも受け入れられず、だれからも愛されず、必要とされていないという悲しみ、これこそほんとうの飢えです。愛を与え、愛を受けることを知らない人は、貧しい人のなかでも、もっとも貧しい人です。/…/あなたはこの世にのぞまれて生まれてきたたいせつな人です。あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、金持ちであろうと、貧乏であろうと、それは問題ではありません。あなたは、同じ神さまがおつくりになった、同じ神さまのこどもです。ごうまんで、ぶっきらぼうで、利己的になるのは、いともたやすいことです。でもわたしたちは、もっとすばらしいことのためにつくられているのです。/…/たいせつなのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。/…/貧困をつくるのは神ではなく、わたしたち人間です。わたしたちが分ち合わないからです。/まず知りあうこと、知りあえば、お互いに愛しあうようになるでしょう。互いに愛しあえば、支えあうようになるでしょう。もしほんとうに愛したいと願うなら、ゆるすことを知らなければなりません。】

 

ユダヤ人たちは、旧約聖書を与えられて、神の教えを学んでいたのですが、自分勝手に神の教えを解釈して、自分たちの都合に合わせて自分たち人間の教えにしてしまっていたのです。例えば、今紹介したマザー・テレサの愛のことばからも分かりますように、私たちは、「あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、金持ちであろうと、貧乏であろうと、それは問題ではありません。あなたは、同じ神さまがおつくりになった、同じ神さまのこどもです」と言われているように、私たちは、みんなちがって、みんな大切な神の子どもたちなのです。ところがユダヤ人たちは、どんな人でも同じ神のこどもだとは考えませんでした。自分たち以外の他の国の人はもちろん、同じユダヤ人であっても、彼らが大切にしている決まりを破ったり、守れない人は、自分たちと同じ神の子どもではありませんでした。78年前の日本でも、私たち日本人は天皇の赤子(子ども)と考えられていて、天皇のために命を投げ出すことが誇りとされていました。ですから、朝鮮人や中国人のようなアジアの国の人々を見下していましたし、天皇とは違うイエスさまの父なる神を信じる私たちのようなキリスト教の信者も、天皇は神ではないと言えば、牢屋に入れられてしましました。ですから、今日の聖書でイエスと対決しているユダヤ人たちの問題は、今でも私たちの中にある問題でもあるわけです。

 

今日のヨハネ福音書の箇所の後半(19-24節)では、安息日にイエスが38年間病気で苦しんでいた人を癒されたことを問題にして、神の教えである安息日には「いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:10)という教えを破ったことを理由に、ユダヤ人たち(一般の民衆ではなく、当時のユダヤの支配者たち)は、イエスを殺そうしていました。そのことに対して、イエスはここで、「あなたたちは、安息日に割礼を施している」(22節)と言って、「人は安息日であっても割礼は受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのではなく、正しい裁きをしなさい」と言っているのであります。

 

エスは、神の教えを自分流にゆがめて解釈して、それを基準にして人を裁いているユダヤ人の指導者と彼らに従順に従っているユダヤ人の群衆に対して、神さまがどう考えているかという神のみ心(意志)を自分の心として、彼ら彼女らの過ちをはっきりと指摘し、示しているのです。自分の過ちを指摘されたら、素直に反省し、悔い改めて自分の考えや生き方を改めなければなりません。ところが、ユダヤ人たち、とくに指導者たちはそれが出来ませんでした。ですから、ついにはイエスを殺すことになってしまうのです。当時ユダヤの社会には死刑執行権はありませんでした。ですから、ユダヤ人の死刑執行権を持っていた、ユダヤの国を支配していたローマ帝国から派遣されていた総督ピラトに願い出て、ピラトの権威によって、ユダヤ人はイエスを十字架刑に処することになるのです。

 

エスは十字架に架けられても、自分の栄光ではなく、神の栄光のために生きることを止めませんでした。先ほど人間は土から造られ、鼻に神の息が吹きこまれて生きる者となったということを、お話ししました。イエスは、神の息である神の霊という命に生かされた魂を最後まで失わずに、肉体に受けた十字架を耐えられたのです。ですからイエスは神の命によって最後まで生きた真の(まことの)人なのです。神さまはそのイエスを復活させて、今も霊においてイエスを私たちの中に生かしていてくださっているのです。

 

私たちは、そのイエスさまを信頼して、イエスさまのよう少しでも生きていきたいと思って、毎日生きているのです。「みんなちがって、みんないい」、ひとりひとりが大切にされ、ひとりひとりの命と生活が護られる、神さまのみ心(意志)に従って、みんなが生きる神の国を求めて、この地上の旅を歩んでいるのです。

 

今地球上では私たち人間が引き起こしている戦争や格差による貧困・差別や気候変動による災害に満ち溢れていて、神の国の実現は不可能に思えるかも知れませんが、イエスを通して死から生へと導いてくださる神に信頼して、あきらめずに歩み続けたいと願います。

 

主が私たち一人一人をそのように導いてくださいますように!

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたのみ心を自分の心とする人間は、人と人とが競争して、他の人を蹴落としながら生きるのではなく、自分も他の人も同じようい神さまに大切にされているがゆえに、お互いを認め合い、互いに支え合い、分かち合って、共に生きていきます。
  • 神さま、どうぞ私たちをそのような本当の人間として生かしてください。心からお願いいたします。
  • ウクライナでの戦争も、パレスチナイスラエルとの戦争が行われています。神さま、どうか戦争をしないで、人々が平和に生きる道を与えてください。
  • 貧困や差別によって苦しむ人々もたくさんいます。そのような人々の苦しみや悲しみが生まれない、互いに分かち合い、認め合って、共に生きる世界になりますように。
  • それにも拘わらず、今様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。