なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(37)「無理解という不信仰」ヨハネ7:25-36

11月12(日)降誕前第7主日礼拝                  

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃 美 歌  214(わが魂のひかり)

https://www.youtube.com/watch?v=fB8STIj3sdo

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編105編7-15節(讃美歌交読文115頁)

         (A=4司会者、B=会衆)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書7章25-36節(新約178頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    377(神はわが砦)

https://www.youtube.com/watch?v=PtSGR-kMaEc

⑨ 説  教   「無理解という不信仰」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日の箇所では、ユダヤ人たちの中にイエスを殺そうと狙っている者があり(25節)、実際に「イエスを捕えるために下役たち(「半ば祭儀職員、半ば警官」ブルトマン)を遣わした」(32節)と言われています。

 

ユダヤ人たちのイエスに対する無理解という誤った認識が、イエスを殺そうという行動にまで繋がっていくことが、この箇所では明らかになっています。

 

無理解という誤った認識が人を殺すということを、私たちは、今年関東大震災100年に当たり、関東大震災の時に起こった朝鮮人や中国人の虐殺について学んでいますので、よく理解できることだと思います。

 

人間関係において一方の他方に対する無理解という誤った認識が、いろいろな悲劇を引き起こすことがあります。父親の無理解という誤った認識と威圧に耐えかねて、自死を選ぶ子どももいます。逆に無理解という誤った認識を持つ威圧的な父親に反抗して、父親をバットで殴り殺してしまう子どももいます。無理解という誤った認識を持つ父親が子どもの命を奪うこともあり、また父親の子どもへの無理解という誤った認識によって、父親が子どもから命を奪われることもあるわけです。そういう意味では無理解という誤った認識は生(命)にではなく死につながりますので、本当にこわいことです。

 

私たちの現在の世界の現実は、ロシアとウクライナの戦争とパレスチナイスラエルの戦争をはじめ各地の内戦という形で、軍事力による人と人との殺し合いを止めさせることが出来ていません。その他貧困や差別をはじめ様々な格差を生み出す社会ではなく、みんなが対等・同等であって、互いに分ち合い、支え合う社会を世界的には生み出せていません。むしろ地球世界として見た時に、現実の世界は破局的な方向に突き進んでいるように思われます。

 

その最も大きな原因は、私たち人間の無理解という誤った認識にあるのではないでしょうか。多くの人々は自分が正しいと思って行動していると思われますが、その正しさは歪んだ、無理解という誤った認識に基づいた正しさであって、そのことが問題を引き起こし、生(命)ではなく死をもたらすことになっているのではないでしょうか。

 

そのことを考えますと、ユダヤ人たちがイエスに対する無理解という誤った認識に基づいて、イエスを殺そうと狙い、下役たちを遣わしたということは、大変恐ろしいことです。そのような自分を抹殺しようとするユダヤ人たちに対して、イエスはどう対処されたのでしょうか。

 

25-31節を見ますと、イエスがメシヤすなわちキリストであるかどうかについて、エルサレムの人々の間で論争が行なわれます。そういう中でイエスは、御自身が彼を遣わし給うた方のもとから来た者であることを、「叫んで言われた」と記されています。そうしてさらに、「わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」と言われます。このイエスの言葉が、人びとの憤激を買うことになったわけですが、このイエスの自己証言はイエスを理解する上では大変重要です。

 

聖書によれば、我々人間はアダムとイブ(エバ)の末裔だと言われます。創世記の人間創造物語によれば、その我々人間は神の似姿として神の被造物として造られたと言われています。ヨハネ福音書の今日の聖書箇所の中で、イエスが「わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」と言っている「その方」とは、人間を創造し、この世界万物を創造し、それを保持し、救済する神です。イエスは、その神のもとから自分はきた者であり、その神がわたしを遣わされたのであると言っているのです。

 

最初の人間アダムは、土からつくられ、その鼻に神の息(霊)を吹きこまれて、生きた人間になりました。しかし蛇と妻イブの誘惑に負けて、彼らが住む場所として神に与えられたエデンの園の中央にあった、唯一神が食べてはならないと禁じられた善悪を知る木の実を食べて、神を裏切って自分中心に生きるようになり、エデンの園を追放され地上を放浪するようになりました。それ以来、人間は労働と出産によって代々生きて来なければならないようになっていると、聖書は語っているのです。人類が地球上に広がって行き、民族や国家による分断の時代を人類は迎えて、現在に至っています。アダムとイブの子どもたちであるカインとアベルの兄弟殺しは、今も克服されずに、戦争や差別という形で人類に暗い影を落としています。

 

旧約聖書の民イスラエルは、そういう人類を覆う暗い闇からの解放を、神から遣わされるメシア(救い主)に期待しました。しかし、彼ら・彼女らはそのメシアを、他国の支配からのユダヤ人の政治的解放者として曲解しました。このユダヤ人の曲解は、聖書では無理解という誤った認識であって、神から遣わされるメシア(救い主)は、全ての人と、この自己中心的で傲慢な人間によって傷ついた自然の解放者であるのです。

 

32-36節では、祭司長たちやパリサイ人たちが、イエスを捕えて裁判にかけるために下役たちを遣します。彼らに対して、イエスは、「今しばらくの間、わたしはあなたがと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることができない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」と言われます。イエスは神的存在としての御自身のこれからの道行きについて語られるのですが、そのような言葉が、ユダヤ人たちに理解されるはずはありません。

 

ここでイエスは、「今しばらくの間、わたしはあなたがと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く」と言っています。ユダヤ人たちが、下役を遣わしてイエスを捕えさせようとしているのですが、そのようなユダヤ人の意志によって「イエスの時」は決定されることはない、神によって定められたイエスの時が来たら、「わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く」とイエスは言っているのです。

 

エスの受難は、神が定められたその時が来るまで起こり得なかったのです。私たちキリスト者は、神が一切の時と一切の出来事を支配しておられ、神のゆるしなくしては何事も起こり得ない世界に住んでいることを決して忘れてはなりません。また、すべての人にとって光であり命であるイエスを拒み続けるならば、自分自身の魂を罪のうちに滅ぼすことも可能なのです。これは恐ろしく聞こえるかも知れませんが、本当のことなのです。

 

昨日11月11日のボンフェッファー『主のよき力に守られて~一日一章~』は、今日の聖書のメッセージにふさわしい文章ですので、それを紹介して、この説教を終えたいと思います。少し長くなりますが、お許しください。

 

【11月11日 現実の人間と世界の側に立つ神:

 「神が人となった」ということは、われわれにはとうてい理解することのできない謎、この世に対する神の愛の謎である。神は人間を愛している。神はこの世を愛している。理想的な人間を愛しているというのではなく、ありのままの人間を、理想的な世界を愛しているというのではなく、現実の世界を愛している。われわれは、神に反逆することによってみずからに苦痛と敵意を招くが、そのわれわれにとって嫌悪すべきことが、すなわち現実の人間、現実の世界が、神にとって限りない愛の根拠となるのである。

われわれが「人間」以上のものになりたいとか、何とかして人間の現実から抜け出したいとあくせくしている時、神が人間となるのである。われわれが、信仰者と無信仰者、善人と悪人、身分の高い人と低い人との間に分け隔てをする時、神は人をかたより見ず、現実の人間を愛するのである。神は、われわれがこの世と人間とをわれわれのはかりに従って区分けし、われわれがこの世や人間の審判官の地位につくことを耐え忍ばない。神は、この世と人間のことで神に訴えてくるもののがわに立たず、むしろ現実の人間と、現実のこの世の側に立つ。その結果、神はこの人間、この世界と共に訴えられこととなる。すなわち、審判者が被告となるのである。

「神が人間となった」ということは、悪人においても善人においても、人間を軽蔑することが知恵の最後の結論であると考えられているような時代を根底から揺り動かす神の攻撃である。平穏な時代の静かな流れにおいてよりも、むしろ、激動の時代において、人間性の弱さが明瞭になる。すなわち、そのような時代において、予期しない脅威や場面に直面し、不安、欲望、依存心、獣性といったものが圧倒的多数者の行動の動機として示されるようになるのである。このような時代には、独裁的人間軽蔑者が現われ、いとも簡単に人間の心の中の低俗な部分を利用し始める。しかも、すべてを見通しているはずの善良な人間でさえ、嫌気がさし、人間から逃避し、悪い人間が悪を行なうのをそのままにしておき、その結果、悪い人間と同じような人間軽蔑という誘惑に陥ってしまうのである。その場合の人間軽蔑は、少しは高尚で、正当であるかもしれないが、しかし全く実りなきものであり、全く無力なものとなるであろう。「神が人となる」という出来事の前には、良い人間の人間軽蔑も、独裁者の人間軽蔑も、同様に、存在し続けることができないのである。

現実の人間を知り、その人間が軽蔑すべきものではないということを知るのは、人となった神を通してのみ可能になることである。人間に対する神の愛の根拠は、人間の中にではなく、神自身の中にのみあるのである。】

 

 

お祈りいたします。

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、他者である隣人に対する無理解という誤った認識が、人と人との殺し合いに帰結することを、今日はユダヤ人たちがイエスを殺そうと狙って、下役を遣わしたことを通して学びました。無理解の恐ろしさを、改めて思わされました。
  • あなたはイエスを通して、無理解な者を含む現実の人間を愛してくださっています。あなたにとって、愛するに値しない人間は一人もいません。どうか私たちがそのあなたの愛によって生きていくことができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • あなたの愛によって生まれる人と人との絆が、今敵意によって戦争による殺し合いをしている民族や国家間にも広がりますようにお導きください。
  • そのために私たちが少しでも働くことができますように。
  • 今様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    194(神さまは そのひとり子を)

https://www.youtube.com/watch?v=Q7W0F-MNLVA

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。