なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(14)

以下は今朝船越教会のメンバーにメール配信したときの一言です。

 

皆さまへ

 

おはようございます。

いつもより配信が遅くなりましたが、今日も生みの苦しみの説教です。

ご容赦ください。

コロナウイルス感染にはくれぐれも気を付けてお過ごしください。

 

新しい週の皆さまお一人お一人の歩みの上に主の支えをお祈りいたします。

 

                      北村 慈郎

 

8月29(日)聖霊降臨節第15主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでNさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      205(今日は光が)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編104編24-35節(讃美歌交読詩編113頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙3章1-1-8節(新約276頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  196(主のうちにこそ)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-196.htm

⑨ 説  教  「人間の不真実と神の真実」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • パウロはロマ書1章18節からこの手紙の本論に入ったのですが、本論ではまず第一に、3章20節まででパウロが述べているのは、人類というか、人間の不真実=罪の現実についてであります。

 

  • そのパウロの論述からしますと、今日の3章1節から8節は、ちょっと横道に入ったような個所と言えます。「パウロは1章18節よりロマ書の本論に入って、はじめに異邦人の罪を責め、次いで2章に入って、ユダヤ人の罪を責めました。この第3章では、人類全体が罪人であると論断するわけですが、その前に、この1-8節において、ユダヤ人の側から起こってくる2,3の疑問に答え、さらに、9節以下で、いよいよ人類全体が罪人であることを論じます」。

 

  • ユダヤ人の側から起こってくる2,3の疑問とは、パウロ自身が予想してここに記しているもので、パウロ自らがユダヤ人に代わって反問を出し、そしてその反問に対してそれぞれ簡潔な答えを与えているのです。それが今日の3章1~8節の部分です。

 

  • この個所について、小泉達人さんはこのように言っています。<自分の言葉に行き過ぎを感じ、神の民イスラエルにはやはり特別な恩寵があることを、補足としてパウロは書きかけた。しかし書き始めるや否や、問題の重要さにパウロは気付く。そしてこれは小さな補足では論じ切れず、想を新たにして本格的に論じる必要を悟ったらしい。それで彼はこの論議をここで打ち切り、後に9,10,11章と三章に渡ってイスラエル問題を論じた。/そういた次第で、この文章は中途半端で、議論も込み入ってハッキリしない。わたしたちもこのまま読み飛ばした方が賢明であろう>(『ローマ書新解~万人救済の福音として読む~』)。小泉さんはそう言っていますが、私たちは読み飛ばさないでいきたいと思います。

 

  • パウロは、2章のユダヤ人の罪を問うところで、ユダヤ人は律法を与えられ、割礼を施しながら、その律法と割礼という神の賜物を大切にして、それにふさわしく生きようとしなかったことを問題にしました。律法や割礼は、自分たちは神に特別に選ばれた徴としての誇りとなり、ユダヤ人が特権意識を持つ根拠になってしまい、非ユダヤ人である「異邦人」を汚れた者として差別するようになってしまったのです。そのようなユダヤ人のあり様は、神がユダヤ人に望んだ姿では、全くないのだということを、パウロは示したのです。むしろ、異邦人であっても、良心に従って善い行いをしている人は、律法をもっていながらそれを行わないユダヤ人よりも優れているのだとまで、パウロは述べているのです。

 

  • このパウロの言っていることを、私たちキリスト者にあてはめれば、こういうことかも知れません。すなわち、洗礼を受け、教会員として熱心に教会生活を送っているからと言って、洗礼も受けず、教会生活も送っていないが、イエスに信従する匿名のキリスト者がいるとすれば、そのような匿名のキリスト者の方か、洗礼を受け、教会員を自負しているキリスト者よりはるかに優れているのだと。そうなると、洗礼を受け、教会生活をまじめに送っている私たちは、疑問を持つのではないでしょうか。では、洗礼の意義は何か、教会(生活)の意義は何かと。

 

  • パウロは、ユダヤ人の側からのそれと同じ反問を想定して、1節、2節でこのように記しているのです。田川訳で読んでみます。≪ではユダヤ人の長所は何か。割礼は何の役に立つのか。あらゆる点で、多くある。まず第一に、神の言葉が託された、という点である≫。

 

  • バルトは、この1,2節についてこのように述べています。<いったいユダヤ人社会と割礼はまったく何の価値も、また何の実質的かつ永続的特徴も、持たぬのか。パウロは、これは最大の誤解だと答える。ユダヤ人は今もこれからも、神の言葉、神のもろもろの啓示がイエス・キリストご自身の人格に至るまで、また、イエス・キリストご自身の人格を含めて委ねられて来たし、これからも委ねられていく民である。従って、異邦人が信仰に到達する場合、常にただ、いわばこの民の客になりうるに過ぎないのである。「救いはユダヤ人から来る」ということは、この場合も変わらない(ヨハネ4:22)>と。

 

  • エスご自身がユダヤ人であったということを思うと、この「救いはユダヤ人から来る」ということが重く受け取れるように思います。私は、ユダヤキリスト教の流れには、今日的にも人間の救済にとって決定的な意味があると思っています。宗教としての一神教であるユダヤ教キリスト教に決定的な意味がるというわけではありません。私は、ひとりの神と人間の間に成り立つ契約関係が旧新約聖書のテーマだと思っています。旧約聖書では、モーセを指導者とするエジプトで奴隷の民であったイスラエルの民が、エジプトを脱出し、彼ら・彼女らを導いた神ヤㇵウェとの間でシナイ契約を結びます。

そのシナイ契約の徴として十戒が与えられます。十戒は神の民はかく生きよと命じる神の戒めであり、その戒めは人間が人間として自由に解放されて生きることができる、私たち人間の命に至る道です。その基本は、ひとりの神を信じ、愛し、その神の下にあって対等・同等な私たち一人一人が、互いに隣人の命と生活を侵さないで、助け合い、支え合って、互いに愛し合って生きることにあります。神によって命与えられ、神の愛によって成長した人間は、互いに愛し合う者として神の愛を体現していくのです。その全人類的共同体が完成した時に、聖書の契約思想が実現成就することになります。その完成は終末の出来事ですが、それに向かって、私たちは今その途上を生きているのではないでしょうか。

 

  • 権力と資本による支配と隷属が克服されて、この宇宙(地球)という自然と富の共有、そして「バラバラの一緒」という、個の尊厳が保証された連帯が、私たち人類の中に確立した時に、聖書の契約が最終的に実現成就するのではないでしょうか。今なお抑圧差別に苦しむ現代社会に生きる私たちですが、その聖書の契約の完成にこそが、私たち全ての希望があるということを見失ってはならないと思います。

 

  • そのようなことからしても、この聖書の契約思想をこの歴史の中で実験的に生きた最初の民がイスラエルユダヤ人なのです。旧約聖書は、そのユダヤ人の実験の挫折の歴史ですが、挫折したからと言って、その実験の歴史の価値は失われません。イエスの十字架死と復活後に誕生した教会は、旧約の民ユダヤ人の実験を継承する、民族の枠組みを越えた、イエスを中心とする信仰共同体としての「「新しいイスラエル」として誕生しました。その教会の実験は今も継続中ですが、この未来の完成以外に人類の希望は、どこにもないのではないでしょうか。

 

  • 少し飛躍し過ぎましたが、3節、4節を見たいと思います。田川訳で読んでみます。≪ならばどういうことか。何人かの者が信実でなかったとして、その不信実が神の信実を無効にするのか。まさか、そんなことはありえない。神は真であるにせよ。また、人間はすべて偽り者であるにせよ。「それは、汝(=神)の言葉において汝が義とされ、汝が裁かれる時に汝が勝つためである」と書かれてあるとおりである≫。

 

  • ユダヤ人の第二の反問は、「何人かの者が信実でなかったとして、その不信実が神の信実を無効にするのか」であります。「何人かの者」とはユダヤ人の一部の人ということではなく、ユダヤ人全体を意味するものです。ユダヤ人が今信じていないという事実は、神の信実を無にすることを意味するのではないか。なぜ信実なる神は単純に、その民のすべての肢を信実なものにしなかったのか。それに対して、パウロユダヤ人の不信実という事実認識に立って、それにもかかわらず、神の信実は変わらないと言っているのであります。≪神は真であるにせよ。また、人間はすべて偽り者であるにせよ≫。パウロにとって、ユダヤ人のみならず、異邦人もすべての人間が不信実であり、偽り者なのです。しかし契約の一方の当事者である神はあくまでも信実であります。

 

  • バルトは、<この民の中に神に逆らう抗弁、神からの離反があるにしても、それは、一方に信ずるものもあるということが神の恵みであるということを、いっそう力強く示すようになるだけである。—――そしてこのことについてのみ問うことができるのだ!―――。それゆえに、彼によって義とされたものは、絶えず彼のあわれみを誇るこことができるのである>と言っています。

 

  • 人間はすべて不信実で、偽り者である。誰も、イエス・キリストの十字架と共に不信実で、偽り者である己に死に、イエス・キリストの復活に与って神に向かって新たな人として生きる者にならなければ、神の信実に人間の信実をもって応えることはできません。

 

  • 5節、6節、田川訳、≪もしも我々の不義が神の義を保障するなとどいうのであれば、何と言うべきか。怒りをもたらす神は不義ではないか。私は人間的な仕方で言っている。しかしまさか、そんなことはありえない。それなら神はどうやって世界を裁くのか≫。

 

  • ユダヤ人の三番目の反問は、≪もしも我々の不義が神の義を保障するなとどいうのであれば、何と言うべきか。怒りをもたらす神は不義ではないか≫。これは、神の義が成立するのは人間の不義を前提にしている。それなら人間の不義を怒る神こそ不義ではないかという屁理屈です。

 

  • それに対しては、パウロは、同じ地平に立って弁明せずに、≪しかしまさか、そんなことはありえない≫と、断固としてそれを退け、≪それなら神はどうやって世界を裁くのか≫と、終わりの日の神の審判を指し示すだけです。

 

  • 第四のユダヤ人の反問は7節(田川訳)です。≪神の真理が私の虚偽によっていや増して神の栄光へといたるのであったなら、どうしてなお私が罪人として裁かれることがあろうか≫。これは5節の第三の反問とほぼ同じです。パウロはこれに答えて、≪我々は冒涜を犯し、「善を来たらせるためになら悪をなそう」などと言っている、と悪口を言う者がいるが、そうなのか。そういう者たちの裁きは当然である≫と言っているのです。

 

  • これらのユダヤ人の反問は、イエス・キリストの福音による逆説、不信実で偽る者である私たち罪人が、イエス・キリストの贖いによって義とされ、神の信実に人間の信実をもって応えて生きる者に変えられているという、罪人の義認が理解されていないことがら生まれるものと思われます。もしこのイエス・キリストが私たちの罪を背負って、私たちに代わって呪いを引き受けて下さらなかったら、私たちはイエスの十字架を前にして、裏切り、逃げ去ったままの人間として生き続けなければならなかったのではないでしょうか。神の信実と人間の不信実が交わらないままに、です。イエス・キリストの十字架は、神の信実である神の愛が、裏切り、逃げ去る人間をも包み込んで、イエスに従う者へと変えてくださるという神の真実なのではないでしょうか。

 

  • その罪人の義認が、「善を来たらせるためになら悪をなそう」という放埓主義を生み出すのではないかというユダヤ人の反問に対して、パウロは「冒涜」と言って、それは神を侮蔑することだと、激しく否定しているのです。川島重成さんは、<それほど罪の赦しの福音は、罪の容認とぎりぎりに接している、ということであろう>と言って、このように記しています。<しかしより本質的にはパウロの論敵の非難がパウロの個人への怨恨のレヴェルを超えて、福音に対する攻撃となった。つまり神の恩恵に対する冒涜となった、とパウロは受け取ったからであろう>と。そして、<この8節では直接には福音に敵対するパウロの論敵が呪われているが、わたしたちは皆本来、罪ある者として神の呪いの対象たるべきものである。ここでもわたしたちは、この呪いをわたしたちに代わりその身に担って十字架上で死に給うたイエス・キリストなしに、このパウロの厳しい断罪の言葉を聞くことはできないと改めて思わされる>と言っています。

 

  • その思いを共有し、罪に居直るのではなく、イエス・キリストの十字架によって罪から解放されたイエス・キリストの仲間の一人として、私たちは生きていきたいと切に思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、聖書の深い真理が、どうぞ私たちのものとなることができますように、私たち一人一人を導いて下さい。
  • 新型コロナウイルス感染のために苦しむ者、豪雨による水の被害やがけ崩れで苦しむ者、また抑圧的な支配者によって人権が侵されて苦しむ者、貧困によって苦しむ者が、その苦しみから解放されるために、あなたの導きによって多くの人の働きが生まれますように。その働きに私たちもそれぞれの形で参加できますように。
  • アフガニスタンの混乱とハイチの地震による大きな被害で苦しむ人々に適切な支援の手が与えられますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     449(千歳の岩よ)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-449.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。