なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(50)「拒絶されるイエス」10:19-30

3月3(日)受難節第3主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   149(わがたまたたえよ)

https://www.youtube.com/watch?v=olWsf8Ja_-0

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編90編1-12節(讃美歌交読文100頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書10章19-30節(新約187頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     299(うつりゆく世にも)

https://www.youtube.com/watch?v=pYhj7Mnubr8

⑨ 説  教   「拒絶されるイエス」          北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

大貫隆さんはヨハネによる福音書は、金太郎あめのように、何処の箇所を開いても、神の言(ロゴス)であり、真理であり、永遠の命である、父なる神と一つである、人となった神であるイエスにについて記している、と言っています。

 

ヨハネによる福音書10章も、先ず前回この説教のテキストだった1-18節には「羊飼い」の譬えをとおして、「羊飼い」と「羊の門」であるイエスについて記されていました。そのイエスの語った羊飼いの譬えをめぐって、その後、イエスユダヤ人の間に論争が起こります。その論争を通して、イエスは何者なのかが明らかにされていくのです。

 

19-21節では、イエスの語った羊飼いの譬えをめぐって、ユダヤ人たちの間に意見の対立が起こったことが記されています。この19節で新共同訳では「対立」と訳されている原語はスキスマと言って、口語訳では「分争」と訳され、田川訳では「分裂」と訳されています。<このスキスマという語は、…決定的で、動かし難い決裂を意味するものではなく、むしろ、動揺の中にある分裂を表>します。ですから、ここではまだイエスユダヤ人たちとの間で、決定的な決裂が生じたわけではありません。9章の生まれつきの盲人をイエスが癒された時には、ユダヤ人たち(ファリサイ派の人々)は、癒された人やその人の両親を問いただしていいますが、イエスを巡って彼らの間に対立が起こったということは記されていません。ところが、今日の箇所ではイエスを巡ってユダヤ人の間に対立が起こっており、さらに10章31節以下では、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」(31節)と言われ、「ユダヤ人たちはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」(39節)と言われていて、イエスに対してユダヤ人たちは敵対的になっています。イエスを巡るユダヤ人たちの態度が、段々と決定的な決裂に至ることが、ヨハネ福音書では描かれているのです。

 

多くのユダヤ人たちは、イエスの語った羊飼いの譬え話を聞いて、イエスは悪霊に取りつかれて、気が変になっているのだと言ったとあります。そして、何故イエスの話にユダヤ人たちが耳を傾けるのか、と問いかけます。一方ほかの少数のユダヤ人たちは、「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか」(21節)と言ったとあります。イエスの語る言葉や行う業を通して、イエスをどう見るかということで、ユダヤ人たちの間で分裂が起きたというのです。

 

このようなことは、この聖書に出て来るユダヤ人たちの間だけではなく、私たちの中でも起こり得ることではないでしょうか。私たち人間は社会的な存在です。ロビンソンクルーソーのように無人島で、独りで生きているわけではありません。ユダヤ人たちがユダヤ社会で生活していたように、日本で生活している私たちは日本社会の中で生活しています。日本社会は息苦しいからと言って、日本を脱出して外国で生活する人もいます。それは、それぞれの社会には、学校の校風とか、会社の社風とか言われるような、その社会の構成員の言葉や行動をしばる決まりやエートス(空気)があるからです。ですから、その社会のエートスに合わない強い個性を持った、その社会の中で突出した人は、その社会に適応している他の社会の構成員から、あの人は変わり者だと言われて、その社会から疎外されることも起こるわけです。イエスは、そのような変わり者としてユダヤ人たちからみられたのでしょうか。そういう面もあったかも知れません。とにかくイエスは当時のユダヤ人社会の中では突出していたわけです。

 

けれども、ユダヤ人の社会には、現在のユダヤ社会を根本的に変えてくれるメシア(キリスト=救い主)が到来するという信仰がありました。ですから、メシアが到来した時には、そのメシアは、既存のユダヤ社会に適応しない単なる変わり者ではなく、自己中心的な人間である自分たちを、その的外れな生き方から贖って(解放して)くれて、また既存のユダヤ社会もローマ帝国の支配から解放し、正義と平和と喜びに満ちた神の国の到来をもたらす方だと信じていたのです。

 

以上のようなことがあってから、どれほど時がたってからのことかは分かりませんが、22節から、また新しいイエスユダヤ人たちのやりとりが始まります。そのイエスユダヤ人のやりとりが起こった状況が、22節以下の最初の所にこのように記されています。田川訳で読んでみます。<その時、エルサレム宮浄めの祭があった。冬だった。そしてイエスは神殿で、ソロモンの柱廊の中を歩いていた。それでユダヤ人が彼を取り囲み、彼に言った>とあります。

 

「宮浄めの祭」(田川訳)は、今日の太陽暦でいえば、12月の頃の、冬の祭りでした。7章10節の「祭り」である仮庵の祭りからほぼ二か月後に行われていました。「宮浄めの祭」と訳されている「エンカイニア」は新約書の中で、ここ一回しか使われていません。これはヒブル語の祭りの名称「ハヌッカ」をギリシャ語に訳したものと考えられています。ハヌッカは、新しい建造物の落成、修築の意味です。その歴史的背景は、シリヤの王アンティオコス=エピファネスによって異教の祭壇とされてしまったエルサレム神殿を、紀元前165年にマカバイ家のユダが聖別し、新しい祭壇を築いて、奉献したことにあります。新共同訳では、紀元前165年に起きた「宮浄めの祭」のこのような由来から「神殿奉献記念祭」と訳しています。この祭りは「光の祭り」と呼ばれたと伝えられています。光は、旧約の中で、救いと一対になって使われている大切な概念で、神の救いの意志の現れを象徴しています。ユダヤの人々がどんなに大きな喜びをもってこの祭りを祝ったかが想像できます。しかしそれと共に、ユダヤ人たちがマカバイ家のユダによる神殿奉献の日から一世紀半を超えながら、待望のメシアはまだ出現せず、依然として外国の支配下にあるもどかしさに焦燥の色をこくしていたであろうことも推察できます。

 

24節に、<すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」>(新共同訳)と記されているのは、そのようなメシアの出現を心待ちにしていたユダヤ人たちの姿を示しています。

 

このユダヤ人たちの姿勢について、林継夫はこのように記しています。<もし、宗教というものを、人間の側からの儀式や奉献、祈りや奉仕としてだけ理解しているなら、神殿が修復されて、そこで祭りが盛大に行なわれれば、それだけで、心の充足はなされるであろう。しかし、宗教の根本に、神から人への働きかけがあることを知る者にとっては、神の顕現、栄光の臨在、み言葉の語りかけは必須である。ユダヤ人は、かつて、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師や王たち、預言者や祭司たちにご自分をお示しになった神を知っている。そして、今、自分たちにも、神の顕現を切に願っている。それは、謙遜な思いである。人から神への運動としてだけ宗教を考えるものは、「わたしはやったのだ」という満足感に支えられた空しい高慢の中に堕するであろう。だから、ユダヤ人たちが、主イエスに、この問いを投げかけたことは間違いではなかった。バプテスマのヨハネも似たような問いを問い、主イエスから、女の生まれたもののうちで最大な者とのおほめをいただいた>と。このことは私たちキリスト者にとっても大切なことです。イエスと聖書に聞くことを失ったら、信仰が枯渇していくに違いありません。

 

けれども、ユダヤ人たちはメシア出現を心待ちにしてはいましたが、イエスをメシアとは思えませんでした。この場面でも、<すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った>(24節)と記されていますように、「取り囲む」という動詞には敵意をもってした行為であることが仄めかされています。イエスは、ここで、ユダヤ人たちの敵意に囲まれたのです。少なくとも教えを乞うて集まったのではなさそうです。そのユダヤ人たちの言葉「いつまで、わたしたちに気ももませるのか」(新共同訳)(口語訳は「不安のままにしておくのか」。田川訳は「精神をもてあそぶのだ」)がそのことを示しています。

 

<イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている>(25節、新共同訳)。イエスは、敵意をもって彼を告発するための言質をとろうとしているユダヤ人たちを、正しく見きわめています。しかし、へり下った心をもつ人々には、ご自分をはっきと示されました。スカルの井戸でサマリアの女に(4:26)、生まれながらの盲人に(9:37)、イエスはそのようになさったのです。イエスは、どのような人にも、ご自身を全く単純明快に示されました。しかし、頑なな心をもつ人々には、イエスの教えは難解で不鮮明と、思われたのでしょう。「業」(エルゴン)という語は、ヨハネによる福音書に27回も使われ、イエスの言行、イエスの生涯を表現しています。もちろん、ここでは、直前にある盲人の目をあけたイエスの業が、人々の心に払拭しきれない鮮明な印象を残していたことが想像できます。

 

<しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う>(26-27節、新共同訳)。イエスを信じるということは、イエスとの交わりを生きるということです。羊飼いと羊との関係は、羊たちが羊飼いを信頼して、自分の身を羊飼いに委ねて生きることを意味しています。この羊飼いと羊の関係は、旧約聖書では神と私たち人間の関係に譬えられています。羊は群れで生きています。羊同士で小さな争いはあるかも知れませんが、殺し合うまで争うことはできません。外敵に対しても抵抗力が余りありませんので、羊飼いの保護の中で生きている動物です。この羊飼いと羊の譬えは、人間は神に造られた者として、本来神の保護の下に、小さな争いはあったとしても殺し合うほどのものではなく、皆平等で互いに愛し合う者として存在していることを、物語っているように思います。イエスは、神に逆らって、自分が神の如く生きるようになった私たちの所に来て、私たちを神に造られた人間本来の姿に回復して下さるのです。イエスを信じ、イエスとの交わりを生きるということは、そういうことです。

 

ですから、<・・・わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 わたしと父とは一つである」>(28―30節、新共同訳)と言われているのです。

 

このイエスとの交わりを、私たちも生き抜いていきたいと願います。

  

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、現実のこの世界は、本来羊であるべき私たち人間が、ライオンやオオカミのような獰猛な動物になって、奪い合い、殺し合っています。悲しいことですが、それが現在の世界の現実です。
  • 神さま、み心ならば、私たちがあなたによって羊として命与えられていることを想い起させてください。そしてあなたから遣わされイエスに導かれて、すべての羊である人間が平安の内に生きることができますように、私たちをお導きください。
  • ウクライナやガザでの戦争をはじめ、軍事支配や民族紛争が、一刻も早く終結しますように。
  • 差別や貧困、気候変動や地震などの自然の災害で苦しむ人々に救済の手が添えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌  436(十字架の血に)

https://www.youtube.com/watch?v=sOpYUTF_2KI

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。