なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(49)「羊飼いイエス」10:1-18  

2月25(日)受難節第2主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   461(みめぐみゆたけき)

https://www.youtube.com/watch?v=A--dElSXY4g

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編18編26-35節(讃美歌交読文19頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書10章1-18節(新約186頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    419(さあ、共に生きよう)

https://www.youtube.com/watch?v=FbbYpBKeNfo

⑨ 説  教   「羊飼いイエス」          北村慈郎牧師 

  祈  祷

  

今日の説教題は「羊飼いイエス」とつけました。今日の聖書の箇所であるヨハネ福音書10章1-18節には、11節に「わたしは良い羊飼いである」と言われているからです。

 

<良い羊飼いとしてのイエスのイメージは、私たちキリスト者の中に、時代を越えてしっかりと根付いると思います。一番よく知られているイエスの聖画の一つは、羊の群れを導く羊飼いとしてのイエスを描くものです。あるいは、このヨハネ福音書の箇所ではありませんが、100匹の羊の譬えから、迷った一匹の羊を見出して、その一匹の羊を肩にかけて帰って来るイエスを描く聖画もよく知られています。イエスのこのような絵が、教会の指導者のイメージにも影響を与えたのではないかと思われます。昨日教区総会で按手礼式が行われましたが、私たちの教会でも按手を受けた教師を「牧師」と呼んでいますが、この「牧師」は、イエスが良き羊飼いとして羊たちを導いたように、教会の信徒を導くようにというイメージで、そのように呼ばれているものと思われます。

 

R・Gオデイは、<このような(羊飼いの)イメージが教会の働きのなかで非常に重要な役割を演じるが故に、新約における羊飼いのイメージの様々な用いられ方を弁別することがヨハネ福音書10章の解説者にとって最も重要である>と言って、<例えば、教職の牧者的イメージへの移行はヨハネ10章の解釈よりは、むしろ新約の他のテキスト(例えば、ヨハネ21:15-19,使20:28-29、Ⅰペト5:2-3)の分野であろう>と言っています。

 

ちなみにⅠペトロ5章2-3節を読んでみますと、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」と記されています。確かにこのⅠペトロの言葉は、直接教会の「指導者」である「牧師」について語られています。

 

それに対してヨハネ福音書10章1-18節は、「羊の門」(7節)であり、「良い羊飼い」(11節)であるイエスについて、また「羊」である私たち一人ひとりと「羊の群れ」である教会について記されてはいますが、「牧師」の働きを思わせるようなことは何も記されていません。

 

ところで、1節から5節までに記されています羊飼いと羊との関係についての叙述は、当時のパレスチナにおける実際の羊飼いたちの生活とその働きのありのままの姿を描いているものであると言われています。1節で新共同訳では羊の「囲い」と訳されていますが、この「囲い」と訳されている原語の「アウレー」は、<今日でもヨーロッパや中近東で多く見られる建物で囲まれた中庭を指す語です>(田川)。毎日曜日その日の礼拝式と説教原稿をメールで皆さんに送っていますが、その際、日本訳を6種類併記したその日の聖書箇所も添付していますので、それをご覧になっていただくと分かりますが、田川訳と岩波訳以外は、新共同訳も口語訳も本田訳もシュラッター訳も「囲い」と訳されています。「囲い」と訳したのは、田川さんによれば、<今日の牧場などで、羊や牛が遠くに行かないように牧草地を柵で囲ってあるのを思い出してこう訳したのだろうが、この語にそういう意味はない>と言われます。<農家では、居住用の建物のほかに、納屋、作業用の建物、冬などに家畜を入れる家畜小屋等々があって、それらの建物に囲まれる仕方で中庭があった。放牧する家畜を夜にはこの中庭に入れていたのである。ただし3節に見られるように、この文の場合は個々の農家の中庭ではなく、複数の農家が共同で利用する場所。夜に羊を集めてここに入れ、朝に外の牧草地に連れて行く>(田川)というのです。

 

そのような羊の飼われ方を前提にして、ヨハネ福音書のイエスは、1節から5節まででこのように述べています。田川訳で読んでみます。≪「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、羊たちの中庭に門を通らずに他のところから乗り越えて入って来る者は、盗人であり、強盗である。門を通って入って来る者は羊たちの羊飼である。この者には門番が(戸を)開き、羊たちはこの者の声を聞く。そして羊飼は自分の羊たちを名前で呼んで、外に連れて出る。自分の羊たちをすべて外に出すと、その羊たちの前に進む。そして羊たちは彼について行く。羊たちは彼の声を知っているからである。羊たちは他の者にはついて行かない。その者から逃げる。他の者たちの声を知らないからである」≫。

 

エスはこれを、ファリサイ派の人々に話されたのですが、しかし、「彼らはその話が

何のことか分からなかった」と6節には書いてあります。イエスの話されたことが彼ら

にはわからなかったというのです。それは、どういうことでしょうか。このイエスの話

されたことは、何一つわからないような事柄ではありません。イエスはここで、パレス

チナで極めて日常的な事柄であった羊飼いの生活を、そのまま話されたに過ぎません。

また、それが比喩であったとしても――つまり救い主と人間の関係についての比喩で

あったにしても、それは旧約聖書でも繰り返し用いられている比喩であります。最も有

名なのは詩編23編です。≪主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。/主はわ

たしを青草の原に休ませ、/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返られせてくださる

≫(1節)に始まる詩編です。聖書のことには、人一倍通じていたはずのファリサイ派

の人々に、この比喩が分からなかったはずはないのです。ですからここで、彼らにイエスの言われていることが分からなかったということは、この羊飼いとか羊とかいう比喩で、誰のことが言われているのかがわからなかったということでしょう。さらに、盗人、強盗という言葉で誰のことが言われているのかがわからなかったということでしょう。あるいは、むしろ、わかろうとしなかった、わかることを欲しなかったということでしょう(井上良雄)。

 

そこでイエスは、7節から言葉を新しくして、1-5節の第一の部分で語られたことを、もう一度説明されます。それが第二の部分(7-10節)になります。ここには、イエス自身が「わたしは羊の門である」(7節)、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(9節)と言っています。しかし、同時に羊を「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」する盗人や強盗と対比して、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)とも記されていて、この叙述は明らかに「羊飼い」をイメージしています。ですから、7-10節では、「羊の門」と「羊飼い」という二つのイメージが混在しています。

 

そして、11節には、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いを羊のために命を捨てる」と記されています。そしてそれ以降では、「盗人や強盗」ではなく、羊のことを心にかけていない「雇い人」と対比して、イエスは「良い羊飼い」は羊のために命を捨てる。そして「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)と言うのです。17節の≪わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる≫は、15節で羊飼いと羊との関係を、≪父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである≫と、父なる神とイエスとの緊密な相互関係と同じであると言われて言葉の続きとして読めます。すなわち、やがて起ころうとしているイエスの十字架、またそれに続く復活は、父なる神のイエスに対する愛とイエスの父なる神への自発的な従順という、緊密な相互関係の中で起こることです。従って、そこには何ら強制はありません。また、周囲の状況に迫られてやむを得ず選び取られた苦しい決断でもありません。それゆえに18節で、イエスは続けて、≪「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」≫と言われます。すなわち、愛に基づく父なる神からの委託であると、イエスは言われるのです。

 

これが今日のヨハネ福音書の「良き羊飼い」の譬えの箇所で語られている要約です。羊に譬えられている私たちは、羊が羊飼いによって守られなければ、羊そのものは元々攻撃的な動物ではなく、大変弱い動物ですので、盗人や強盗に襲われれば、抵抗できずにされるままなってしまいます。この盗人とか強盗は、羊飼いに守られている羊を、羊飼いから奪って、自分たちの思い通りに羊を消費するわけです。一匹一匹の羊に名前を付けて呼ぶ羊飼いのように、盗人や強盗は、一匹一匹の羊を大切に扱いません。利用価値がないと思えば、簡単にその羊を葬ったり、棄ててしまうでしょう。資本の論理や強権的な国家の論理は、私たち一人ひとりの人間をそのように扱うわけです。政治家や経営者の中には、羊飼いのような資質を持った人もいるかもしれませんが、そのような人はごく僅かでしょう。土肥昭夫さんは、戦時下教会が国家に包摂されたように、今の教会は資本に包摂されているのではないかという主旨のことを述べています。

 

そういうことがありますので、このヨハネ福音書の著者はイエスを羊飼いに譬えているだけでなく、「羊の門」にも譬えているのではないでしょうか「羊の門」について、井上良雄さんは、<実際私たちが、イエス・キリストが私たちにとって、本当の羊飼いであるということを聞くだけでなく、羊の門でもあるということを聞くことは大切なことだと思います>と言って、このように述べています。<彼はもちろん本当の羊飼い、よき羊飼いでありますけれども、しかし、同時に彼は、私たちにとって、唯一の羊の門であるということができます。/ところでしかし、彼が唯一の羊の門であるということ。即ち、私たちにとっては、彼だけが神の真理への門であるということ、彼を通してしか、私たちは、神の真理に接することはできないということ、私たちはよく自然などに接すると、そこで神に接したなどと軽々しく言いますが、それは不可能であるということ。理性によって神を知ることもできなということ。歴史によって神を知ることもできないということ。そういうことは、昔から神学の世界で問題として議論されてきたことですが、しかしそれは、単に神学の世界の問題ではありません。私たちの生きた信仰の問題でもあります>と言っています。すなわち、ヨハネ福音書8章31,32節でイエスが<わたしの言葉にとどまっているならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする>と言われているように、です。

 

羊飼いであり、羊の門であるイエスに従って、イエスの本当の弟子として私たちも歩んでいきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、羊飼いであり、羊の門であるイエスを通して、あなたの真理にある自由を、私たち一人ひとりが、また小さな群れですが、私たちの教会が、生きることができますようにお導きください。
  • ロシアによるウクライナへの軍事侵攻がはじまって2年が経ちました。今なお停戦への道筋が見えず、この戦争がいつまで続くのか、わからない状態です。神さまロシアもウクライナを支援する国々も、戦争継続の軍事品の生産に力を注ぐのではなく、戦争終結のための話し合いのために力を注ぐようにお導きください。一刻でも早く停戦が実現しますように。
  • ガザにおけるイスラエルハマスとの間でも、一刻でも早く停戦が実現しますように。
  • 能登半島地震で苦しんでいる人々を支えてください。また適切な支援が与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌  456(わが魂を愛するイエスよ)

https://www.youtube.com/watch?v=nIvfT4X742M

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。