なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イエスは今なおどこに隠れておられるのか(鶴巻通信29)

カール・バルトの一日一章』2月21日

 

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」             マタイによる福音書25章40節

 

バルトの2月21日の『一日一章』はマタイ福音書25章の最後の審判の記事の中にある上記のイエスの言葉(25:40)をめぐるメディタチオーンです。その後半の部分を紹介したいと思います。

 

バルトは、マタイ福音書25章の最後の審判の記事で、最後の審判で羊飼いによって、羊は右に、山羊は左に、より分けられることに触れ、<教会は、たしかに主の教会ですから、羊飼いがその右側に置く人びとの群と一体であることを期待します。しかし、この期待において喜んでいい教会はどれか。それについてはイエスの再臨において決定がなされるでしょう。すなわち、イエスの再臨から、イエスがまだ隠されている時である現在への立ち戻りが生じます。今の立場で、イエスへの、今なお隠されている者への今の態度で、将来、イエスの右側に立つ教会はどれか、がその時決定されるでしょう>と言い、以下のように記しています。

 

<しかし、イエスは今なおどこに隠れておられるのか。神のもとに、父の右に、――神の言の中に、洗礼と聖餐の中に――欲するままに吹く聖霊の秘密の中にでしょうか。然り、その一切のものですが、一切がこの譬えの中で前提とされている結果、次のことの確認によって圧倒されるのです。すなわち、イエスもまた――それはイエスの最終啓示において決定的なものでしょうが、――この現代に飢えている者、のどが渇いている者、異邦人、裸の者、病気の者、囚われている者たち各々の存在の中に隠れておられます。常に、この現代に、この人たちの一人の人間的な援助を(食料、飲み物、宿泊施設、衣料、訪問と介護を)待っているところで、そこに彼、イエスご自身が待っておわれます>。

 

<常に、「この人びと」の一人にこのような優しい心遣いがなされるか、あるいはなされないところでは、その時心遣いは彼、イエスになさるか、あるいはなされないかであります。「この人びと」はイエスの最も小さな兄弟たちだからです。彼らは世の実例であり、世のためにイエスが死に、蘇られたのであり、イエスが世との連帯を表明されたのです。――>

 

<まさにそのことが最後の審判において、真の教会を、御国を受け継ぐ教会を決定する試みであるでしょう。すなわち、教会はその使命あるこの時代に、無条件に他ならぬ「この人びと」に、まさに悲惨な世界に向いたところで、彼イエスに向いた教会であったかどうかを判定するでしょう>。

 

<教会がそれをなしたということ、教会が世界の具体的な悲惨に触れられて、貴族的な言い逃れをしながら彼らの側を通りすぎはしなかった。教会が率直に、直接に、そして反対の一切の弁解もなく「人間的」であった、ということが明らかになるならば、教会は幸いなるかな、であります>。

 

現在の日本基督教団という教会が、そして個々の教会・伝道所が、イエスの再臨の時に「幸いなるかな」と言われる教会であり得ているでしょうか。私たちはそのことに真剣でありたいと願います。